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hkmaroのブログ

読書の感想など

どの本を読めばいいのか

本を読んで、その感想や評価を書き、次に読む本を探す、というのが私の考える読書の1サイクルであり、時には感想や評価を書くステップは省略されるけれども、大抵の場合どっかに書き付ける。書かないと本の内容を忘れるからだ、というわけではない。書くことによって自分なりの本への評価を整理するからだ。必然的に、感想を書くほどの本は、良い悪いは別としてそれなりに内容のある本だということになる。感想を書かない本は例外無く内容の無い本である。内容がないから悪いというのではなく、自分の認識と本の主張との間に摩擦がおこらない場合、感想は書かれない。つまり常日頃自分が思っていることと大差ないことや、誰が読んでも当たり前に知っているような内容しか書かれていない本はわざわざ感想を書くに値しない。それに対して難しい本を読んだ場合は内容をまとめないと読んだ気にならない。逆に言えば内容をまとめて初めてその本を読み終えたことになる。それは言い方を変えれば本に対してレッテルを貼ることでもある。そうして私の脳内の秩序は保たれる。

さて、そのような読書のサイクルを繰り返していると、常に向き合わざるを得ないのが「次はどの本を読むべきか」という問いである。これはまことに不思議な問題で、まず「どの本を読むべきか」という問いに対する答えは「本を読むことに何を期待しているのか」に依存するはずである。楽しいひとときを過ごしたいのであれば売れている娯楽小説を読めば良いし、テスト対策をしたいのであれば参考書を読めば良い。頭が良くなりたいのであれば難しい学問の本を読めばよいはずだ。しかし私自身は読書に対して何か決まった効用を期待しているわけではない。しかもこれは私特有の問題ではなく、趣味として読書をするほとんどの人がそうなのではないかと思う。敢えて言えば、楽しい読書がしたいし、頭もよくなりたいし、あわよくば実用的な知識も手に入れたい、という複数の渾然一体となった効用を期待して読書をしているのではないだろうか。だが、日常的に読書をする人であるならば知っている通り、読書することによって得られるものなどほとんどない。いくら本を読んでも、現実世界での利益にはほぼ間違いなく結びつかない。そのような読書は、ある明確な効用を期待している読書の場合にのみ当てはまる。先述したテスト勉強のための読書などがそうである。娯楽小説を読みまくるのもそうである。

しかし、例えば楽しい読書がしたくて娯楽小説を読んでいるのに、突然娯楽小説に嫌気がさしてくる時がやってくる。漠然と、読みたい本がなくなった、という感覚にとらわれる。かといって難しい学問の本がその不満を解消してくれるかというとそういうわけでもないし、ましてや資格試験の本を読んで資格をとろうという話でもない。そういう時は本屋の棚の前で立ち尽くしてしまう。次は何を読むべきなのかわからなくなってしまう。

こうした事態が起こるのは、読書がいわゆる知的活動であるからだろうと思う。同じことをするのに飽きてしまう、というのとはまた少し違う気もするが、娯楽小説ばっかり読んでいると、娯楽小説に娯楽小説を超える何かを期待するようになってしまう。同じことを繰り返すことには意味が無いと考えられるようになるのは、本を何冊か読んで感想を書いたりしてそれをもとに次の本を探して……というフィードバックを繰り返して、多少なりとも変化を希求し続けるからだ。ほんとにそれくらいしか読書一般としての普遍的効用はないと思うが、それはそれで大事なことのような気もする。

それで途方に暮れてしまった場合に次に何を読めば良いのか、その実践的な解決法を考えてみた。それは、読書リストに過度に依存するのではなく、つまり、「前の本」と「次の本」との関係によって読書歴を作るのではなく、自分と本との関係で読書歴を作っていくのだという風に考え方をシフトさせることである。人間が一生のうちに読める本の数など限られているし、そもそも本を読むのは自分なのである。自分の固有性と本の内容を照らし合わせて、そこに起こる摩擦こそが感想として書かれるのであった。であるならば、読書感想文は半分くらいは自分語りでもなければむしろ正当ではない。極端なはなし、書店に行って一番最初に目にとまった本を読んでその感想を書く、というサイクルの繰り返しでも良い訳だ。まあ、それは流石にモチベーション維持の面で問題が出てくるだろうし、そもそもそのようなベストセラー本にはとるに足りないことしか書いていないという問題もあるが、その位思い切ったおおざっぱな本の選び方でいいんじゃないのかと最近は思えてきた。名著は、自分と本の共同作業で作るものなのだ。