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hkmaroのブログ

読書の感想など

主体、芸術、日常、発達障害について。

最近エドワード・サイードの『人文学と批評の使命』という本を読んだ。人文学者とは美について語る人であり、美とは非日常的なものであり、また美は非主体的なものに対する反状況的な想像力によって生まれる、というようなことが書いてある。それはよくわかる。毎日毎日電車に乗って、会社または学校へ行き、日中から日が暮れるまで意味があるのかないのかよくわからない仕事や勉強をし、またぞろ満員電車にゆられて家に帰り着くとぐったり疲れていて、朦朧とした頭でテレビ・マンガ・ネットをして、風呂入って寝る。こうした一日の流れを一時かく乱するのが美(=文学や絵画や音楽など)に触れることだ、という話は経験として非常に共感はできる。サイードの人文学の擁護のしかたはこうだ。人文学者は美について非日常的に真剣に批評する。その批評の仕方でもって現実の政治(をはじめとするいわゆる状況一般)を真剣に批評することもできる。ゆえに人文学者は政治について発言せねばならないし、非専門家としてそれができるのも人文学者である。しかしなぜ人文学者が政治について批評をできるのかについては読んだ感じではあまり納得いく理由が書いてなかったように思うし、非専門家として政治について口出しするのにことさら人文学者を気取る必要もないのではないかと思った。

だが本当に問題なのはそこではない。非日常的な美に敏感であることや、非日常的な美にこそ人生や人間にについての「深い」問題が表れるというのもある程度正しいと思うのだが、本当に問題なのはそこではない。問題なのはそもそもの日常が満足に生きていけない人々がいることである。それは貧困が理由である場合もあれば、政治的事情によりそうである場合もあれば、家族が理由だったり知人隣人が理由だったりする場合もあるだろう。個人の性格の問題もあるかもしれない。それぞれの理由によって日常は簡単には送れない。日常を満足に過ごせない人から見れば、サイードの言うような人物が人文学者なのだとすれば、それはやはり自らの身の安全を確保した上で学問の堂宇でオタク的に正典を愛撫するアメリカの新人文主義者と同じである。日常を満足に送れない人にとっては、美も政治も同じように遠くにあるのだ。

最近新書で『発達障害に気づかない大人たち』という本を見つけてこれを読んだ。発達障害について書いてある本で、この本の内容自体はとるにたりないゲーム脳本なのであるが、発達障害という障害の症状を知ることができたことは重要だった。それは一言で言うと日常的な生活が送れない障害である。日常生活を遂行する上でやらなければならないこと、掃除や色々な手続きや支払いや社交や……それらのことが一切うまくできない。これは自分にあてはまっているなと感じた。というか私は発達障害であるとこの本を読み終えた今は思う。

面白いのは「チャウシェスクの子どもたち」の例である。発達障害はまず先天的な脳の異常が原因としてあって、社会心理的要因はあくまでそれを強化したりとかトリガーをひく役割を果たすだけだと考えられていた。しかしルーマニアのみなしごたちであるチャウシェスクの子どもたちは発達障害及び脳の異常を持つ割合が極端に高く、社会心理的要因だけでも脳の異常を引き起こしてしまうことがわかったのだという。ということは極論を言えば「先天的」な脳の異常によって自己に帰せられる責任を全て回避するということは決してできないし、また社会心理的な条件についても(というかそれについてこそ)厳しくみていかなくてはならないということが明らかになったわけだ。

とはいえ所詮ゲーム脳本なので、言ってることにどの程度根拠があるのかもわからないし、あまりにも発達障害の症状に幅がありすぎて、ちょっとおかしな人がいたらすぐに発達障害者だとしてレッテルを貼ることができてしまい、差別や苛めの口実を作り出してしまっていると言える。

サイード自身も言っているように、非日常的な美は日常から生まれる。であるならば日常にある諸問題をこそまず粉砕もしくは分析すべきなのではないか。それに答えられないからこそ人文学者はいまオカルトでしかないのだ。おなじオカルトでも脳科学者たちは大衆の支持を得ている。具体的な処方箋をだすからだ。同じことは宮台にもある程度あてはまるが、宮台は処方箋に具体性が伴わない。耳障りのよい標語を言って終了なので本人が思っているほど破壊力がない。

発達障害者は非日常的な妄想が好きだ。非日常を好む者が日常を送れない。日常を送れるものは非日常をも享受できる。サイードだろうがなんだろうが人文学者は全てその地位から引きずりおろさなくてはならぬ。