hkmaroのブログ

読書の感想など

『俺のケータイなんてかわいくない!』読んだ

神尾丈治『俺のケータイなんてかわいくない!』を読んだが、このタイトルが『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を丸パクリしている、という批判は批判として有効ではない。先日のシャナ=アリア問題についての日記でも述べたが、このパクリが横行しているラノベ界の異常さに気付くこと自体は大切だけれども、パクリが横行しているからラノベ界というかそもそもラノベはクソであるという批判は意味がない。この作品にいたっては、もはや内容分析をする必要がない。いや、内容分析どころか内容を理解する必要すらない。読むという行為を為すための道具でしかない。読むことによって得られる何かが問題なのではなく、読む行為が為されることそのものしか問題ではない。

http://d.hatena.ne.jp/lanoca/20100527/1274990064

上記リンク先にも書いてある通り、ラノベは読まなくても内容がわかるのである。しかし読まなくても内容がわかるラノベは、やはりラノベの一部であるといわざるを得ない。読むことによってその他のラノベとの違いを看取することのできるラノベは存在する。仮にそれを「違いのあるラノベ」とでも呼ぶならば、「違いのないラノベ」との違いは一体なんなのであろうか。実は両者に違いなどない。ラノベはその時々の社会状況に覆われ規定されたオタク文化圏、そのオタク文化圏の特殊オタク文化的状況に覆われ規定された一作家及び一編集者の相互主観的認識をある程度反映しているに過ぎない。もちろん作品の外の状況ばかりがラノベを決定するとも言い切ることはできないであろうが、だが全てのラノベは外的状況に依存している。これは何もラノベに限った話ではないから本当は別にわざわざブログに書いたりするような話でもないのだが、ラノベを時代の断面図として読む読み方は、冷静にラノベを読む一つの方法だと思う。ラノベに作家性が全く存在していない、と言うのであればその他一般小説にも作家性が全く存在していないと言わなければならないが、作家性の定義はひとまずおいておくとして、少なくともラノベが他の一般小説に比べても無自覚に状況依存的だと言うことはできる。だから革新的に見える「違いのあるラノベ」も本質的には革新的ではない。むしろパクリ=ラノベの定型句を繰り返している「違いのないラノベ」こそその状況依存性を体現してしかも開き直っているという意味で革新的である。しかしどっちが革新的かというレッテル貼りも、どちらも無自覚に書かれている小説なので意味はなく、ただの言葉遊びにしかならない。

以上のようなことを確認したうえで改めて問題として提起できそうなのは、ラノベを読むことは時間の無駄かという問いである。ラノベを読むことが基本的には快楽を得ることしか意味しないのであれば、ラノベへと人をひきつけるのは快楽原則と中毒性であり、何か知識や知恵や認識の転回が得られるわけでは全くないということになる。もちろん「違いのあるラノベ」も突然変異的に登場しはするが、これはすでに特殊オタク文化的状況に強く規定されているのでオタクにとっては新たな認識を得られる手段とは言えないであろうし、もしオタク文化的に最先端の新種がラノベの形で登場したとしても、すぐさまパクリ商品の乱造によりそれそのものを読む必然性も次第に失われるであろう。ここにも空気アニメ視聴の問題と同じような問題が登場する。時間の無駄と捉えるかどうかは、精神的成長をラノベ読書という体験に求めるか否かにかかっているのであり、ラノベを読み続けるということは精神的成長を拒否するということを意味するのである。ラノベを読むことは時間の無駄である、とか、無駄ではない、とか言い切ることには意味がない。その判断が一体何を前提にしているのかということに注目すべきである。

だからその意味で『俺妹』や『ゴールデンタイム』等のラノベは新たな相において「違いのあるラノベ」でありうる。もちろん自意識とか実存の問いそのものが特殊オタク文化的流行であるといえなくもないだろうし、状況依存度が単に一般小説と同じレベルにまで下げられるだけであるかも知れないが、それでも精神的成長をラノベが夢見ていると解釈して注目しておいても悪くはないだろう。