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読書の感想など

『緋弾のアリア』の感想

こうやってレビューめいた文章を日々シコシコ書いているとよく考えるのだが、レビューする際には非常に大きく考えて二つの評価の方向がある。一つ目は作品がどれだけ優秀なのかどうか。ラノベであれば単純に読んでみて面白いのかどうかだ。二つ目は、ではその作品が面白いにせよそうでないにせよ、なぜそのような作品が生まれたのか、という評価軸である。普通レビューといえば専ら前者のことを指す。しかしこの作品の「良さ」という評価軸は、最終的には評者の好みに還元されてしまう。どれだけ論理的にその小説の「つまらなさ」の根拠を述べたつもりになっても、「だがそれがいい」と言い返されたら、次は単に相手の趣味を否定する言葉しか返すことができない。そうするともはや作品のレビューではなくてただの悪口に堕する。もちろんそういう「良い」とか「つまらない」といった価値判断を含むレビューにも一定の意義はある。その意義とは、そうした価値判断の結果が「統計」的に採集されて利用される場合である。逆に言えば、価値判断を含むレビュー(=感想)は一つのサンプルでしかありえない。それに対して二つ目の、作品の背景を読み込む評価の方向においては、単純な価値判断は不可能になる。どんなにクソな小説であっても、そのクソな小説が何故書かれたのかであるとか、なんでこんなにクソな小説が売れているのか、などを考えることによって発展的な議論を形成することができるであろう。しかしその際にも、価値判断の評価が前提とされねばならない。良い悪いの判断を完全に棚上げして作品の背景のみを見ることはできない。なぜなら全ての創作物は生み出される背景を持っているという当のそのことが、例えば消費者たちの価値判断枠組や、作家の価値判断枠組に作品が依拠しているということを意味しているからだ。つまり背景とは消費者たちの価値判断枠組や作家の価値判断枠組をも含んでいるのだ。同じように何故評者である彼自身はこの作品をあえて論評しようと思ったのかという、レビューの背景への配慮もなされねばならない。レビューの背景とは、レビュアーの価値判断枠組を含んでいる。

さて『緋弾のアリア』であるが、ラノベを日常的に読んでいる者なら誰もが『灼眼のシャナ』を思い浮かべるだろう。タイトルからしてまず似ている、という指摘もし得るし、それはそれで重要な指摘なのであるが(例えばライトノベルのタイトルには一般小説のタイトルに比べて圧倒的にキャラクターの固有名詞が含まれている割合が高い。背表紙が並んでいる棚を少し見比べてみるだけでハッキリわかる。これはライトノベルがキャラクター小説だからだとも言えるし、同じことであるが、ライトノベルは話の内容を抽象化できない=テーマ性が少ないからだとも言える)、この連想は何よりもまずキャラクターの造形が類似していることに由来する。ももまんとメロンパンの果たしている役割(というよりもどのくらい無意味で読者をバカにした挑発的な設定であるか、その程度加減)は著しく同じい。もちろん話の内容自体は『灼眼のシャナ』とは大分違う。同じ学園ものでありながら登場する小道具群もかなり趣が異なっている。しかしながらこの小説は『灼眼のシャナ』と同じ小説だと言い切る意義が私にはあると思う。これは『緋弾のアリア』をパクリ小説呼ばわりしようだとか、その価値を貶めようだとか、ましてや『灼眼のシャナ』についても何かいちゃもんをつけようだとかいう意図を持って言うのではなくて、そうすることによってライトノベルが書かれる上でのある種の法則性や本質の発見に対して資するところがあるからだと考えるからである。同じような話が雨後の筍のように作られる、という事態は大ヒット作が出現した直後によく見られる現象であるが、この二作の類似性はそれとは全く事情を異にしている。当然作者である赤松中学ライトノベル作家としての職務遂行上必要欠くべからざる努力の一環として『灼眼のシャナ』を読みはしただろうし、ひねくれた推測をするならば企画を立ち上げる段階で誰か関係者の「シャナみたいなの出しましょう」的な発言がなかったとも言い切れないが、だとしても同じものをすぐに出して同じように売れる、という現象はライトノベル業界ひいてはオタク業界でしかみかけない。大体雨後の筍や後釜を狙った作品は、瞬間的には消費者の誤解やオリジナルへの需要が過多になることによって売れるかも知れないが、すぐに「パクリ」であることを断罪されて歴史的にはほぼ抹殺されるものである。だがキャラクターさえ立っていればオタク向けコンテンツ産業においてはそのようなまっとうな力学は働かない。

ではキャラが独自の魅力を持っていさえすればオタク業界においてはパクリ(≠盗作、トレース)は「アリ」なのかというと、そうではない。キャラが「立っている」とは、キャラが「独自の魅力を持っている」ということと同じではない。事実、アリアの魅力とシャナの魅力は質的にほとんど同じである。というよりも、質的に同じだからこそアリアとシャナは同じように消費されるのである。オタの典型的な消費行動報告ブログにはこう書かれるであろう、『シャナ』が好きな人には『アリア』もオススメです! と。アリアとシャナは同じでなければ「ナシ」だというのが正しいのである。もちろんその類似性を保ちつつも微妙な差異が含まれていることは依然大事で、それがなければいくらオタでも飽きるだろうが、しかし例えばツンデレという一つの属性があるならば、それを系譜的に受け継いだ作品が愛玩されるだろう。その際自覚的にツンデレの系譜を踏まえている必要性は全くない。そのファジーさ加減がむしろ同じものが同じように売れるというループ現象の根拠でもある。

おそらく我々オタクが最も敏感にならねばならないのは、シャナ=アリア的なループを形成した小説の中に作家の自意識や反省をも含んだ作品が出てきた場合で、そのとき作家の実存(と少なくとも本人が思っているもの)すらもがループに巻き込まれてしまっている可能性がある。それを是とするのか否か、オタク達はどっちを選ぶのだろうか。というか、実存の固有性を選んだらオタクというレッテルをも留保付きでしか受け入れられないだろうから問題にすらならないのか。その意味では敢えて自虐的にオタクを名乗るという昨今では減少してきた(らしい)態度は、実存の固有性を気取ってもそれが実はループに過ぎないと暴かれる可能性を恐れるオタクの防衛技術だったのかもしれない。だがその防衛技術が衰退しているという事態こそが(たとえばDQNオタク、リア充オタクなどが命名および可視化されたこと)シャナ=アリアループ現象の下地を形成してもいるだろう。