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読書の感想など

『僕は友達が少ない』読んだ

平坂読僕は友達が少ない』(以下『はがない』と記す)の一巻を読んだ。学生が読んでみたけどクソだと言っていたから逆に気になって読んだ。学生が何故クソだと思ったのかというと推測するに昨今の『らき☆すた』『けいおん!』などに代表される<日常+萌え+空気>でできてるアニメの系譜につらなる小説だからだろうと思う。ちなみに自明の前提として述べておきたいのだが、上に名前を挙げている『らき☆すた』や『けいおん!』は教育的なアニメではない。もしもアニメを観る行為が人の精神の成長に資するべき、という立場をとるならば『らき☆すた』『けいおん!』は駄作ということになる。教育的アニメ、というのは単に教育テレビでやってるようなアニメであるということを意味するのではなくて、例えば社会に対する批評を含んだ作品であるとか、アニメ表現の刷新を追及した作品なども十分に教育的だと評価することができるだろう。昨日の日記でも名前が登場した東浩紀の『動ポモ』の理論を使うならば、非教育的なアニメは視聴者がそれぞれに各々の好きな萌え要素を作品に勝手気ままに読み込む消費の仕方をされる。であるから、作家が視聴者に向けて作品内にメッセージを仕込んでもそれが届くかどうかは重要ではない。社会の批評を織り込んでも、それは「社会の批評」の単なるパロディとしてしか受け取られないかもしれない。そのメッセージがオタに都合の良い方向にしか解釈されない可能性もある。そういう作家の絶対性が失われた消費によって支えられている作品が非教育的なアニメなのである。

アニメに限らず昨今の非教育的なサブカルメディアにおいて、どの要素がもっとも非教育性を助長しているのかというと、間違いなく空気である。<日常+萌え+空気>が主成分の非教育的アニメにおいては実は日常とか萌えとかは非教育性を考えるにあたってはどうでもよくて(日常でありかつ萌えであっても教育的であることはできる。萌えをキャラクターの可愛らしさに変換したら教育テレビのアニメはまさにそれであり、キャラの日常生活内での事件が寓話的機能を果たす、という建前になっている。さらにわかりやすく言えば、アニメ版ドラえもんの登場人物たちが全員萌えキャラとか美男美女ばかりになっても、のび太が秘密道具を悪用して罰をうけるという毎度のパターンが維持されれば、作品の教育的機能はそれほど失われないというか建前としては残る。とは言え萌えに関しては東浩紀の『動ポモ』でもデータベース消費の典型例として引き合いに出されていたように、非教育性を助長しないとは言い切れない)、多様に解釈することのできる余地を残す空気の要素こそが重要である。空気の要素をふんだんに盛り込むことで成功している小説家に、森見登美彦という作家がいる。ネット上にある彼の小説のレビューを読むとかなりの高評価をしている人が多くて、実際に彼の小説を読んだ人は違和感を抱くだろう。なぜなら彼の小説はいわゆる「名作」ではないからだ。森見の小説には一通りの主要な物語の道筋が存在しない。というか、物語の時間的進行を追っていくことが森見の小説の読み方ではない。小説の端々に登場する小道具の組み合わせ(=空気)を楽しまなくてはならないのである。だから森見の小説のレビューは「ほっこりする」「あったかい」などという文字通り空気の状態を表現する語や、「雰囲気が良い」「不思議な感じ」などという具体性を欠いた、体験を語る言葉で彩られるのである。特に注目しておきたいのは森見登美彦が文学として受容されているということで(少なくとも森見読者はそう思っているだろう)、今時文学を読もうという読者たちが『らき☆すた』『けいおん!』と同じ消費の仕方で文学を読んでいることに注意しなければならない。古典文学の売れ行きはこういう人々の消費行動によって今や支えられている。

と前置きが長くなったが、『はがない』の一巻の評価は実はこういう非教育的作品の評価軸とは切り離した地点で行われるべきだ。見た目はまったく上に挙げた一連の非教育的作品と同じに思えるかもしれないが、実は『はがない』には多様な解釈を許す<空気>の要素が欠けている、とまでは言わなくとも重点がおかれてはいない。日常と萌えはあるけれども空気がない代わりに寓意があるわけでもない。いわば<日常+萌え+ギャグ>で成り立っている小説であり、一通りの物語がないという意味で森見の小説とも似ているが、しかしガジェットを楽しむのでもない。作者のあとがきに書いてあるが、この小説は友達が少ない人間の妄想を表現した小説であり、その妄想を追体験するのが読み方として良いのではないか。読書によって虚構の体験のみを享受するという意味では森見作品と共通しているが、それよりも読んでいて感動したのは意図せざる寓意が読んでいるうちに浮かび上がってくることで、その寓意とは、「リア充的ステータスを持っていても友達がいないことによってリア充になれない」というキャラクターの作られ方に秘められている。このことは金や能力や美貌などよりも何よりもコミュニケーション強者であることがリア充の条件であるという非リア充の意識を物語っていて、その他のステータスはコミュニケーションに利用されることによってこそリア充のシンボルとなりうる。隣人部の部員がモンハンを極めることによって(いわば「モンハン充」になることによって)友達を作ろうと画策する場面などは象徴的だ。いかにしてコミュニケーション強者になるのか、そのために何をするべきなのか(いかにして社会化するか、あるいはクラス内階級闘争に勝利するか、でもかまわないが)についてオタクが自覚的にせよ無自覚的にせよ考えることによって生まれた作品だと仮定するならば、『ゴールデンタイム』とも近い内容を持った小説と言えるだろう。