hkmaroのブログ

読書の感想など

東浩紀について

東浩紀は昔は好きだったけれども最近はなんか政治への無関心とかサブカル方面とかあまり意見の対立しない論客とばっかりつるむ方向へとシフトしたかと思えばルソーを読んでいる宣言をしたりとか民主主義2.0が話題になったことをいいことに「今こそ外国語を勉強して西洋の古典を読んだりすべき」みたいなことを言ったりとかして一見なんか矛盾してるんだけど結局それはどんどん東浩紀本人の興味の向くことしかしなくなっているということであり、そのような態度(特に宇野常寛とのつるみ具合はなんというか傍目からみたらただのオタク大学生が高田馬場の居酒屋で語っていることとそう大差ないこと言ってるようにしか見えない)にもはや興味を持てないので全然読まなくなった。本屋に積まれている新しい本なんかも売れているらしいけどNHK出版なのもあり立ち読みすらしていない。

しかし近々引越しをする予定なので部屋の本を片付けていたらハードカバーの『郵便的不安たち』を見つけたのでなんとなく開いてみたら結構いいことが書いてある。特に一番最初に載っている「棲み分ける批評」とか、その次に載ってる『存在論的、郵便的』の解説講演なども良いことを言ってる。タコツボ化した世の中にあって、相互のタコツボ間をどうつないでいくか、それが可能な新しい言葉遣いこそが必要だ、とか書いてある。なんで日本の批評は哲学が本来担うべき倫理とか政治の分野までカバーしてきたのかというと、日本では急速な近代化のせいで哲学の言葉は一般人には全然理解できない難解な言葉になっており、その代わり文学の言葉への信頼が一般人と知識人をつないでいた。ようするに単なる学問の言葉を使わずに、伝統的な日本文学に由来する言葉遣いによって倫理や政治を語れる人が必要だったわけであり、そこのところを批評家が、具体的に言えば小林秀雄江藤淳吉本隆明が担ったというわけだ。で、今現在(二十世紀末当時)はその文学の言葉ですらあまねく一般人に通じることはもはやありえないほどに複雑化しタコツボ化しているのだから、もっと別の言葉が批評の言葉として採用されねばならない、という非常に明快な問題提起がされている。文学が何故昔は皆に読まれていたのか、また、たとえば何故現代においては『カラマーゾフの兄弟』が流行るのが単に流行以上の現象ではあり得ず、各人のステータス作り(東大生が新入生にすすめる本第一位、とかいうキャッチコピーによって)にしかなり得ないのか、まことによくわかる語り口である。だからもう現代では文学なんてエンタメでしかありえないのだ。誰も文学が偉いだなんて思ってないのだから、文学的にすばらしいかどうかはどんだけ売れたかによって計られるしかない。

そのような明白な問題意識を持っていた東浩紀が具体的にどのようにタコツボ間を行き来しようとしたのかというと、後期デリダがやったように特定のキーワードを使わずに、対話相手の語彙に合わせて話し、いつの間にか相手をこちらがわの論点に引き込んでいくという手法を採用しようと思っていたらしい。確かにその後の東浩紀はサブカル評論をしたりとか、メディアに登場する際過度に商業的なマスコットというかキャラを演じてみたりとか、IT業界のエンジニアに近づいてみたりとか、その一方で一応大学でも働いてたりとか、若手の批評家と交流したりとか、色々な方面に顔を出していて実践的に活動しようと頑張っていたのだろう、と評価することはできる。今も民主主義2.0がどうのとかでニコニコ動画で盛り上がったりしていて、少なくとも単なる批評家として以上に色んな場所で認知されていることだろう。オタク向けのエンタメ系SF小説を書いているのも様々な読者をつなぐという意味では前述の問題意識と矛盾しない。だが冒頭に書いたように、それは結局本人の興味の向くことだけをやっていることの裏返しでもある。IT業界もSF業界もサブカル業界もテレビ業界も批評業界も大学も出版業界も、まあこうして列挙してみると隣接する業界ばっかりだという風にいえなくもない。宮台真司と違って東浩紀は農業の問題とか安全保障の問題とか教育の問題とかを語ったりはしないだろう。別にそのことが悪いとは全然思わないし、私自身もそういう現世的な政治の話にはほとんど興味が向かないので文句を言う筋合いではないのだが、対話相手の語彙に合わせて色んなタコツボの人と会話をする、という方法を採用しようと思っていた人の振る舞いとしては横断するタコツボの種類がかなり限られているような印象を受けるがどうだろうか。確かにバカに話を振ってみてもまず対話が成り立たない、という問題もあると思うが、二十台のときに書いたアツい文章を読むと今現在の東浩紀の姿との間にギャップを感じるのは事実だ。また、やはり『郵便的不安たち』の58ページに書いてあるが、状況論的な本ばっかり出さずに時間的空間的文化的に離れた人にも届く批評をすべき、みたいな事が書いてあるが、今の東浩紀の仕事は自身の言葉に適っているであろうか。おそらく二十台の東浩紀が現在の東浩紀の活動を見たら「あまりに状況依存的」と言うに違いない。『動ポモ』以外に「一般人にもわかる」理論的著作は彼もほとんど出していないからだ。

ちなみに『郵便的不安たち』はかなりの名著で、『存在論的、郵便的』の解説本としても表裏一体を成しているのみならず、その後の東浩紀の扱う主要な論点のほとんどが既に含まれているし、しかもハードカバー版と文庫版では内容が大幅に違うので両方読むべきだ。特にハードカバー版には柳美里&辻人成をこきおろした文章だとか、キャラクターとのフリートーク形式(!)のエヴァ批評などが載っていて必読だ。このエヴァ批評はやばい。特に対話相手の少女(!)がやばい。文学部によくいる批評とか哲学とかをかじった萌えオタにとっては「こんな話が通じる娘が現実にいたらよかったのになあ」と必ず思わせられる萌えキャラぶりを発揮しているので、必ず読むべきだ。東浩紀はこの時点でラノベ作家になっていてもおかしくなかったが、十年後に実際にラノベ作家になっているので彼が作家になるのはある種必定であった。