hkmaroのブログ

読書の感想など

『ゴールデンタイム』読んだ

竹宮ゆゆこの『ゴールデンタイム』を読んだ。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』はしゃべり場風思弁小説だったわけだが、『ゴールデンタイム』はトレンディドラマ風思弁小説であった。竹宮ゆゆこの小説の特徴は、誰が誰とくっつくのか、その過程を読者に飽きさせずに描くところにあり、その点はトレンディドラマ風なのであるが、それにギャルゲー風のトラウマ語りがブレンドされている。このトラウマ語りは時に滑稽であるが、今回は(というかいつもそうなのかも知れないが)それが主人公の多田とヒロインの加賀を主要な軸とした対話編になっている。といっても対話編になるのは最後のほうだけなのだが、ここでは典型的な去勢の話をしている。誰かをありのままに受け入れることが可能なのかどうか、自分は誰かにありのまま受け入れてもらえるのかどうか、そしてそれが可能だとしても果たして正しいのかどうか。「成熟」なるキーワードも出てくる。ポイントは二次元君の存在であり、彼はある種の成熟を果たしたキャラクターとして登場する。ありのままの自分が受け入れられるように現実を変えようとする「未成熟」な加賀に対して、現実はありのままの自分(の欲望)を受け入れはしないという諦念のもとシコシコと「一次元」の理想の女作りに励む二次元君のほうが有る意味「成熟」しているとみなされるのである。極めて本田透的な問題意識であり、また岸田秀的な問題意識でもある。そしてこの「ありのまま問題」は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』でも大きく取り上げられていた。『俺の妹〜』では親が子に対して条件付の承認しか与えないことの是非が問題となっていたが、岸田秀的な精神分析においては人間という特異な存在について考えるにあたってはまさにこの点が非常に重要である。岸田秀の思想をうろ覚えながら極めて大雑把に振り返るならば、以下のようになるであろう。

①人間は人間以外の動物と比較して、生まれてからかなり長い時間未成熟であり、親の多大な保護を必要とする。

②ゆえに人間の子供は親によって与えられた箱庭的環境(=現実の自然界には有り得ない環境)でかなり長い時間をすごすことになる。

③ゆえに人間は現実の自然界に適応することができなくなる。つまり本能が壊れる。

だから人間はみんな本能が壊れた存在であり、それぞれの箱庭の中で獲得した「私的幻想」に依拠して世界を把握する。しかし各々がそれぞれ異なる「私的幻想」ばっかりを主張していたら生きていけないので、集団を形成するために「私的幻想」の共通項を束ねて「共同幻想」をつくり、それが所謂社会とか国家とかを形成し……とたしか続いたと思うが、一番「ありのまま問題」に関連して重要なのは人間の子供が箱庭的環境で育てられて本能を破壊されるというところだと思う。言い方を変えれば「まともな」人間ほど本能が壊れているのであり、ゆがんだ世界認識をするということだ。しかしゆがんだ世界認識こそ「共同幻想」に参加するには都合がよく、本能を多く残している人間ほど人間社会のおかしな点が目に付いて空気が読めず、社会からつまはじきにされる、ともいえるのではないだろうか。つまりありのままの子供を無条件に愛する親の愛情こそが子供の本能を破壊し、自然よりもむしろ社会に適応できるように子供を育成するのである。であるから人間社会で生きる限り、親の無条件の愛情は、子供が幸せに生きられるかどうかを左右する非常に重要な要素となる。だが一般に精神分析的な去勢とは、幼児が社会性を獲得することだと考えられているのであって、幼児が幼児としてありのままに親に愛されることによって「共同幻想」に参加しやすくなって社会性をおびるのだ、という上の私の記述とは矛盾するように見える。しかし「共同幻想」に参加することそのものが社会性をおびることに等しいので、幼児はまず幼児として認められなければ去勢のしようもないのである。結果幼児として無条件に愛されたことの無い人間は『ゴールデンタイム』の加賀みたいな性格に育つであろう。ということは逆に言えば加賀は幼児として無条件に愛されたことがないのである。というわけで私のうろ覚えの岸田秀理論に立脚するならば加賀は必然的に親子関係にトラウマの根源を持たねばならない、ということがいえると思う。なので、きっと『ゴールデンタイム』のこれから先の展開ではいつか加賀家の歪な親子関係が扱われる。間違いない。それにつけてもこうもラノベに思弁小説が増えたということには、特に「成熟」についてラノベにかかれるようになるとは、感慨深いものがある。いつまで経っても思春期より先には成長できなかったオタクたち(当然私自身も含む)がいよいよ自己の未成熟に気付き、ラノベの中で対話編を繰り広げることによってそれを克服しようと頑張っているのかもしれない。その試みが成功するかどうかはわからないが。

ところで先日日記にも書いたラノベの編集者問題だが、ウィキペディアにはすでに「三木一馬」の項目が存在していて、結構編集者に注目してラノベを読んでいる者はいるらしい。しかし三木の担当している小説には面白いのもあればクソそのものだなと思った小説も半分くらいは含まれているので、まあ打率にしたらすごいのかもしれないが三木だから無条件に買う、という短絡的な読書はしないほうがよいだろうなと思った。