hkmaroのブログ

読書の感想など

今日も高田馬場の芳林堂に寄って帰った

今日も馬場の芳林堂を冷やかしてきたのであるが、本屋の役割は変化しているように思う。

http://book.asahi.com/review/TKY201009140190.html

宮台真司がマル激で、これからの本屋はパッケージングが重要だ、とかいうことを言っていたが、それもわからなくはないが、現実に生き残っている本屋は一定以上の包括的な品揃えを持つ本屋だけである。パッケージングの良し悪しはあくまでもそのあとでしか問題にならない。たとえ小さな店舗でもこだわりのある品揃え、店作りをしていれば、固定の客をつかむことができる、という言説も存在していたが、小さな店舗で実際に売れるのは料理本や実用書であるらしい。本に対するこだわりなど何も関係のないマスに向けた有用な情報を扱った本が小規模な本屋を支えている、あるいはいた。それに対して本へのこだわりのある者は最初から大規模な書店へ行く。なぜなら自分の求めるニッチな本はある程度の規模のある本屋にしか置いていないという認識が先に働くからだ。つまり、小規模な本屋ははじめから期待されない。例えば人文書だけを扱う小さな本屋は生き残れないだろう。本屋の人文書のコーナーはその他のベストセラー本やエンタメ小説や実用書などの堅実な売り上げや、また大規模な本屋に特有の総合力と、それによる様々な層の顧客を呼び込む力の上でしか成り立たない。

本と人との偶然の出会いの場を提供するのはこれから先もアマゾンではなくリアルの書店だろう。しかしながらリアルの書店にはアマゾンに匹敵するとまではいかなくとも、ほとんど全てのジャンルにわたる本をとりそろえているという条件が課せられる。欲しいと思った本が大抵置いてある本屋でなければ本屋から客は離れる。家に帰って検索すればアマゾンで買えるのだから。実際にはどんなに売り場面積の大きい本屋でもアマゾンの品揃えに勝つことはできない。であるならば、いよいよその上でパッケージングが問題になるであろう。典型的にはブックフェアやトークイベントがそれであるし、

http://www.books-imagine.com/imagine1000/concierge/index.php

これもパッケージングの一環である。フェア的な棚のかわりの役割をコンシェルジュが担う。

実は立ち読みできるかどうかは本と人との出合いにとっては関係がない。最初の数ページ(〜数十ページ)を読めるかどうかが重要なだけで、むしろ立ち読みを許すと在庫の少ないニッチな棚の本は劣化を免れ得ない。本屋の有利な点はむしろ色々な本の相互の概念的な距離が空間的に反映されて並んでいる、その空間の楽しさを客に提供できる点にある。近いテーマの本はとなりに並んでいて、それらを即座に俯瞰し、かつ即座に手に取ることができる。

ところで芳林堂の高田馬場店の品揃えというか陳列であるが、五階の学参・マンガフロアについて、特にマンガエリアはあまりよくない気がする。品揃え的には悪くないのだろうけれども、購買意欲がそそられない。店員の手書きのPOPなどがもっと欲しいところだ。店員の独断と偏見による強引なプッシュもあまり見受けられない。そういう独断と偏見が書店を「文化の発信地」たらしめるのだ。

http://blog.livedoor.jp/wonderground/archives/52671853.html

上の記事はCDショップの話であるが、おなじことが明らかに書店にも当てはまる。こないだゴスロリ処刑人を見に行ったときにシアターNの近くにアニメイトがあるのでそこで上映まで暇を潰していたのであるが、基本的にマンガやラノベの品揃えとしては芳林堂のマンガフロアと置いてあるものは同じであるにも関わらず、ああしたアニメマンガ専門店の売り方は必然的に違う。手書きのPOPがあったかどうかは忘れたが、アニメマンガ専門店ははじめから来る客がふるいにかけられているのでオタクの共同性をあてにできる。そういった専門店に対抗するには本屋のマンガフロアはもっと泥臭い書店員のレコメンドを充実させるべきだ。アニメイトとらのあなの(意外にも)システマティックな接客や営業態度にはない有機的な部分を補填していかないと未来はない。