hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

毎日日記を書くというのはつらい行為だ。なにしろ、毎日記録を書くほど人の人生には印象深いことは起こらない。年をとればとるほどそうだろうと思う。それでも無理やり書こうとすれば、どうしても単なる記録になる。だがそれはあえて日記として残す価値のないものだ。それはいわば日報だとか日誌だとか読んだほういいようなものである。そんな人生の「業務報告」を書こうという気にはなりようがない。しかしながら、日記として文章を毎日かこうということになると書くことがなくてこまってしまう。ジレンマだ。ネタが無いのなら、ということでその日のニュースなんかをブログに書くようになったりするのだが、それはそれで日記ではない。単なる引用である。ニュースのスクラップを作っているようなものだ。もちろんそんなブログの使い方も間違いではないだろう。

そもそも日記とはなんだろうか。私が思うに、その日思ったことを書くものだ。「今日誰々が家に来た」とだけ書いてもそれは日記ではない。「誰々が来たが早く帰れと思った」というところまで書いてこそ日記だと思う。当然人にはそれぞれ言葉の定義があるだろうから、そういうものは私的には日記ではないという人がいてもいいし、日記には何でも書いてよいと考える人もいるだろうが、私は日記は人間が生きていたことを記録するものだと思うので、何か外界にあるものやあったものに対して私がどのようにそれを受容したのかというところまで書かなくては意味が無いと思うのだ。しかし、日記に書くことが無いという事態とこの私の認識とをつき合わせて考えてみると、どうやら人間には「その日何が起こった」ということを受容できるほどのことが毎日は起こっていないのだ、ということになる。つまり出来事を対象化しないまま一日が終わることのほうがどうやら多いのではないかということだ。これは即自的に生物的に生きているということになりはしないだろうか。人間として生きようと思ったら、やはり日記を書くべきなのだ。という重要なことが今日の日記を書きながらわかってしまった。やはり日記を書くことは大事である。

また、日記に書くネタないときはどうすればよいのかという問題についても一つの回答を得ることができた。その日起こった出来事何でもいいので、それについて感想を述べるということである。感想を述べることで一応対象化が完了する。「ムカついた」「クソだった」「殺してやりたいと思った」何でも良い。それすらも書かずに毎日をぬるく過ごしていると自分が本当は何をしたい人でどうなりたい人なのかもわからなくなるのではないかと思う。

ということはきっと、夢をかなえて幸せな人生を歩んでいる人はきっと日記を書いていた人だ。あるいは自分の目標を掛け軸にして常に壁に貼り付けまくっているような人だ。自分が何をしたいのか、まずはこれをハッキリさせることが肝要だ。日記を書こう。