hkmaroのブログ

読書の感想など

やっぱりVALUE! とか書いてあるCDはクソだ

今日は休みだったのでアキバのタワレコにCDを買いに行った。何のCDを買ったかというと、school food punishment というバンドのCDだ。このバンドはボーカルのネーチャンのおかげで売れてるのだろうと思う。やっぱりバンドの顔が女であるということは重要だ。同じことしてるバンドで、ボーカルがもし男だったらどんなに大ヒットアニメのタイアップなんかをがんばって取ってきても売れなかっただろうと思う。メタルをやらない限りは。きっと2ちゃんとかでは、「ボーカルのネーチャンとセックスしたい」なんていう書き込みが沢山あるのだろうと思う。そういう欲望を受け止められる懐の大きさを期待したいバンドだ。

まあそっちはどうでも良い。邦楽のCDはクソ高いなあ、こりゃあ(よっぽど酷い誇大広告を行わない限り)CDが売れなくて当たり前だなあ、と思ったくらいだ。それより、ジェフベックのCDが5枚まとめて2500円で売ってたから買ったのだけれど(他にも著名なミュージシャンの過去のCDを五枚パックで2500円で売っていた)、これの内容が酷かった。ジャケットをコピーした紙ジャケ風の袋にCDが入っているだけで、ブックレット等の類が全く入っていないのだ。袋をさかさまにしてみるとポテッと生身のCDが転がり出てくるだけ。たしかに曲は聴けるけどさあ、これは消費者をバカにしすぎているという気がするよ。まあ、安物なんだからそんなものを買うほうがバカなのかもしれないが、それにしてもこれは酷い。誰がギターを弾いているのか、ベースを弾いているのか、いつごろのアルバムなのか、どこでレコーディングしたのか、本国ではどういう評価なのか、そういった情報は一切わからない。まさにただの音が出る円盤で、こんなもんだったらネットで違法ダウンロードして手に入るmp3とかとそう変わらない。こういう人をバカにした態度をとってるからCDはどんどん売れなくなるのだろう。そして過去の名作は若者には伝わらないのだろう。私は電子書籍反対派、ではないが、紙の書籍擁護派だ。本を読むときの両手で本に触れている感覚が好きだ、というよりもその身体的な感覚が結構大事だと思っている。確かに資源の無駄使いを削減できるかもしれないし、本を作るコストを下げることにつながるし、何より出版社のクソ権威を失墜させることができるかもしれないので電子書籍の存在そのものは大事だと思う。しかし紙の本も選択可能な未来が私は希望だ。それと同じで、音楽にも物理的な(というか物質的な)姿を選択可能にさせておいて欲しいと思う。その日買ったCDを家にもって帰って早速封を開けるときのあのワクワク感を味わいたいからだ。ネットがどこにでもつながるようになり、どこにいても誰の曲でも(金さえ決済可能なら)瞬時に落とせる時代になったとして、そのときは音楽を作って売るためのコストも大分下がっているだろうから、もしかしたらアルバム一枚千円以下とかで買えるかもしれないが(というよりも海外のミュージシャンがやっているように音源自体は公式で無料で落とせるようになっているかもしれない)、これからも人間が足で歩き手で書き口で食い、ということを続けるのであれば物質と概念がワンセットで経験できる存在の形式はある程度必要だと思う。例えば映画のマトリックスの世界みたいに人間が完全に身体としては所謂活動はしてなくて、脳内世界だけで生きていくようになったら、机やイスや棚や、自転車も車も船も飛行機も、全て概念的な存在でしかない。実際は全て脳内での出来事なので、乗り物にのらなくてもどこでもドア的な移動が本来できてしまうわけだ。本物の机やイスや棚の存在は全く必要ではなくなる。ちなみに似たような危機的? 状況が音楽の世界で起こりつつある。低予算な仕事でちょっとしたBGMが必要なときなんかだと、今は本物の弦楽器(バイオリンやチェロなど)を使うことはあまり無い。よっぽど派手なアレンジをしないかぎり、打ち込みでストリングスの雰囲気は十分出る。あと何年かして、弦楽器ソフトシンセの決定版的なソフトウェアが出たら、プロの弦楽器プレイヤー達は職を失い、かわりにソフトシンセのオペレーターやマニピュレーターが全て代行するようになるかもしれないし、それすらもインターフェースの改良によって不要になるかもしれない。そうすると、弦楽器のプロを目指すアツい若者が育たなくなり、ゆくゆくは弦楽器そのものが衰退して、好事家の楽器に成り下がってしまうかもしれない。そのときバイオリンは今で言うリュートファンタジー小説とかで吟遊詩人的な人々が奏でる楽器)みたいな楽器になるだろう。あるいは一般人にとっての三味線のようなものかもしれない。例えば音楽好きな一般人が三味線の音色を自作の曲に入れたいと思ったら、三味線を弾ける人物を探すよりもまず間違いなく三味線のソフトシンセかサンプリングCDを買うだろう。今や三味線は一般人にとって、せいぜいテレビで見たことがあるくらいで実物を見たことも生音を聴いたこともないがどんな楽器かは大体皆知っているという不思議な楽器になっている。それはともかく、ただで聴き放題の音楽に魅力はあるだろうか。必ずしも金を払うことだ大事だと思っているわけではないし、ただで聴けても音楽に感動することはあるだろうが、そうすると人間は択一的な選択をすることができなくなって広く浅くの態度が過度に広がった世界になると思う。思い込みの力は失われて、あらゆるものが相対化して、あらゆる固有の価値(と思われていたもの)は薄まり、平坦な音楽、どこかで読んだことのある小説、パクリを公称する映画、そいうものが大量に増殖していって、最後には芸術はエンタメと同じになり、エンタメとは単なる生理的刺激ということになるだろう。芸術はただの刺激ではありえないと思うので、芸術という考え方自体がなくなるだろう。

今日夜会った友人たちも、CDはもっぱらレンタルで、PCやipodに私的複製をして聴いていると言っていた。それは本質的にはP2Pで音源を手に入れるのと同じことだ。それを批判する資格は私にはない。なぜなら映画をレンタルで観ているから。映画館で映画をみるということには、一回きりのアウラみたいなものを感じられるという精神論的な意味よりも、半券やパンフレットを含めた物質的な環境とセットになって映画の内容(概念)を経験できるということに意味があると思う。