hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

最近日記を書いていなかったわけであるが、書いていたころの日記を読み返してみるとかなり面白い。別に自分の文章を自画自賛して褒めているわけではなくて、そのころ自分が何を考えていたのかなどについて、予想外なことを言ったりしていて面白いのだ。ともあれ、今日の日記を書くことにしよう。書くことが無ければそのことを日記にして書けばよい。

とはいえやはり書くことは特に無い。特筆すべきことは何も無い。だが、このはてなダイアリーを休んでいた間に、私はツイッターをまあたまにやるようになった。ツイッターの良い点は、書いた内容が誰かに読まれるわけでなく、同時に誰かに読まれているということだ。書く人間の意識は分裂している。政治的なあるいは宗教的な、というよりもむしろ野球や小説・映画の好みなどの、対面のコミュニケーションではなかなか口にできないような微妙な問題について大胆な意見を述べることは、ツイッターではできるが、ミクシィやブログではできない、こともないがより難しい。これは書いた文字以外の誰が書いているのかという情報が文章の内容やその意味を大きく変えてしまいうるからだろう。個人ははじめから特定されており(個人情報が特定されているという意味ではない)、そして書き手にとっても想定している読者というものが存在している。その読者に自分の記事が届くことによって起こる摩擦は、そのまま書き手が日記を書こうとする際のコストともなる。対して、ツイッターにはそういう読者が存在しない。フォロワー一覧を知ることができてもそのことは変わらない。なぜなら相手が自分の記事を読んでいるのかどうかは、明言されない限り謎のままだからだ。またログが後ろに流れている速度もブログとは比べ物にならないくらいはやい。それでいながらコメントやリツイートなどはくるとうれしい。自分のフォロワーは自分の文章を読んでいないかも知れないけれども、例えばブラックメタルについてのつぶやきを毎日毎日投稿し続けていれば、いつかブラックメタル好きなキモオタが「ブラックメタル」などのキーワードでフォローしてきて、そういうやつに自分のつぶやきを逐一チェックされる、という事態も想像できる。そうした者たちと例えば親しくなったりすることがあるのだとすると、ミクシィやブログなどでできた友達(長い時間一緒にいたことのある友達)よりも、検索で飛んできた「友達(顔は知らないが同じ固有名詞群を共有している)」のほうがツイッター社会の中では近い距離にあるということができるのかもしれない。

そこから逆に、PV数の多いブログについて考えてみると、上記の考えとは全く別の結論が導けるように一見思われる。政治や思想や(好みのわかれる)趣味の話をかなり踏み込んで書いているブログばかりが沢山読まれているように見えるわけだが、だが逆に考えれば世の中のほかの大多数のブログはそうしたテーマ性を持たずに自分の日記を垂れ流し続けているだけである(かくいう私のブログも日記を垂れ流し続けている)。つまり、有名ブログの書かれ方と不特定多数の個人ブログとではその書かれ方が根っこのところから違っているというふうにいえるのではないかと思う。その二つのブログのあり方の違いを別の言い方で表現するとするならば、タグがつけられやすいブログなのか、それともタグのつけられにくいブログなのか、ということになるだろうと思う。

ツイッター上でフォロワーを増やすコツは、固有名詞をつぶやきの中にふんだんにちりばめることだ。バンドの名前、映画のタイトル、作家の名前、土地の名前、そういったものを沢山含んでいれば、そのキーワードを常時観測しているような人たちがすぐにフォローしてくれるようになる。そういう使い方がしやすいように作られていると思う。それはネット上のタグの考え方と基本は一緒なんじゃないだろうか。