hkmaroのブログ

読書の感想など

古本屋の未来

★私は古本屋が好きだ。愛しているといってよい。中学時代まで山の中の田舎で育った私は、高校から熊本市で生活するようになり、この世には古本屋というものが結構な数存在しているのだということを知った。しかも、それらの半数以上がマンガやゲームやCDや(エロ)ビデオを同時に取り扱っているのだということを知った。高校時代は毎日のように古本屋に通った。当時はもっぱらマンガ・ゲーム・CD・(エロ)ビデオを渉猟していた。しかしそこでは新刊書店や普通のソフト屋では決して出会えないような作品たちと出会うことができた。世の中には普通の店には置いていないようなマイナーな作品が存在していて、テレビや雑誌で紹介される作品だけが存在しているわけではないのだという当たり前のことに気付かされた。古本屋で一つの宇宙に出会ったわけだ。ある意味世界の無辺さをそこで知ったといってよい。学校や親や友達だけが全てではないということがわかったのである。そういう相対化の契機を提供したのが古本屋だった。そしてもう一つ古本屋通いで得られた最も重要な体験は、自分の部屋を小宇宙として構成することである。少ない小遣いと、その範囲内で取捨選択をしながら何かを選択していく体験と、その積み重なりで徐々につみあがっていく部屋の本、CD、ゲーム、(エロ)ビデオの山。自分は一体何が好きなのかを確認しつつ、自分は一体なにが欲しいのかを明確化する重要なプロセスだったように思う。ただでさえ適当な性格をしている私であるから、現状すでに悲惨な人生を送っているのだが、古本屋通いの日々がなければさらにひどいことになっていたかもしれない。ストレスの解消の仕方を知らなかったかもしれない。何を買えばよいかわからず、テレビの歌謡曲ばかり聴いていたかもしれない。毎週月曜日の朝は電車の中でジャンプを読むくらいしか思いつかないようなつまらないサラリーマンになっていたかもしれない。

最近キンドルなる端末が日本で発売されたらしいが、これが日本語対応した場合には古本業界の状況はさらに厳しくなるだろうと思う。アマゾンの便利さは言うまでもないが、瞬時に本がダウンロードできるということになればその利便性は何倍にもなるだろう。私自身日本語対応キンドルが出たらかなり欲しい。しかし端末のディスクへの直接ダウンロードには、古本屋の介入する余地がない。マテリアルなモノとして本が実質的に存在しないに等しいからだ。中古品というものがそもそも存在し得ない。これでは古本屋がやっていけなくなるのではないか?

しかし古本屋がなくなってもらっては困る。なぜなら最初に書いたような古本屋が担っている文化的な役割を担う者がいなくなってしまうかもしれないからだ。電子媒体が主流になって、ソフトの値段は下がって販売数は上がって、ネット検索でロングテールでデータベースで、古本屋が担う役割なんかもはや存在しないという風にいえなくもないかもしれない。新刊書店自体がシェアをアマゾンにもっていかれて、新刊書店においてある本も、古本屋にしかない本も、両方アマゾンが取り揃えるようになるのかもしれない。古い本の値段は徐々に下がったりなんかして、不当に希少価値分の値段を吹っかけられたボッタクリ価格で重要な歴史的名著を買わなければならない、などという事態はなくなり、万人にとって良いことしか起こらないのかもしれない。

しかし、検索とオススメ紹介機能で一体どんな驚きの出会いがありえるだろうか。クラスの誰も知らないような本を買おうという動機はどこで得られるだろうか。ランキングに頼らない買い物はどうやって可能になるだろうか。自爆覚悟で飛び込む「勇気」はどうやって得られるだろうか。目を鍛えるには沢山の失敗や無駄が必要だ。失敗と無駄が後悔を生み、後悔が知識と嗅覚と「勇気」を鍛えるのであるが、それらがなければ人の賛美する作品を思考停止で受け入れるしかない。あるいは似たような作品を永久に繰り返し享受するしかない。私はやはり日本の未来を支える青少年のためにも、古本屋は生き残るべきだと思う。個人経営の古本屋であろうが新古書店であろうが、古本屋は全部生き残ってもらわないと困る。反動でもノスタルジーでもなんでもなく、ほかならぬ反動や大衆性から脱却するために古本屋が必要なのだ。