hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

★今日も特筆すべきことは何一つ起こらなかった。

トーマス・マンの『魔の山』を読み始めた。二回目だ。昨日の日記にも書いた『美少女ゲームシナリオバイブル』の中に、小説を十回読んだら作家になれる、というような淀川長治的なことが書いてあったので、それを実践しようと考えたからだ。最近は沢山の本を読んであまねく知識を取り込みたいという欲望はおさまってきて、一つの本を何回も読んで人生の座右の書を作りたいと思うようになってきた。その本として私は『魔の山』を選んでみようと考えたわけだ。魔の山の登場人物の中ではナフタが好きだ。セテムブリーニという自由主義者の全く反対側の人物として登場するわけなのだが、セテムブリーニは共産主義者も資本主義者も両方含んだような人物だ。現代日本で喩えてみれば反貧困ロスジェネ運動をするのも新自由主義的な規制緩和を叫ぶのもセテムブリーニだ。学校の歴史の先生という感じだ。ナフタはその影というか裏を代表する人物で、セテムブリーニが自由主義を言えばその反対を言うし、保守的なことを言えばその反対を言う。魔の山を読んでいくうちに共産主義の反対は資本主義ではないし、資本主義の反対が共産主義なのでもないということがわかる。ただ素朴に何か信じることと(哲学者は宗教を信じるべきでない、というのも一つの信仰、思い込みだ)、その素朴さを批判する精神の二つがあるだけなのではないか、というような錯覚を抱いてしまう。しかし日本においてはこれが錯覚ではすまされない現象のように思えてくるところが魔の山を読む現代的な意味だと思う。例えば、少年ジャンプの漫画の敵キャラは、より強大な敵の出現によって相対的に悪度が下がり善玉の味方になってしまったりするわけだが、それまでにはじめの敵キャラが行ってきた非道な行いは十分に糾弾されないままなんとなーく正義の味方になったりするわけだ。こういう場所にいる限り明晰な思考は行えないような気がする。少なくとも日本という場所に適合的に生きてきた人間には明晰な判断は下せないのではないかと思う。ちょっと空気の読めないキチガイっぽい人が実はアタマが良い、ということがままあるのはこういう事情があるからなのかもしれない、などと妄想する。

ヨーロッパ人はヨーロッパ人で私のような日本での問題意識にひきつけた読み方とは違った読み方をするのだろうけれども、というか作者からしてヨーロッパ人なのでヨーロッパ人の読み方のほうが作者の意図をより正しく汲めるのだろうけれども、一体どういう風に読むのか興味がある。