hkmaroのブログ

読書の感想など

★昨日はベルトをつけずに外に出てしまった。トイレに行って気付いた。中学生ならベルトなしでもあまり不自然ではないかもしれないが、いい年した成年男性がベルトなしで外をあるいてると、かなりみっともなく見えるということがわかった。次回からは忘れないように気をつけようと思った。しかし、忘れ物をなくすための根本的な方法はあり得ないように思う。例えば忘れないようにメモしておく、という忘れ物防止の方法が昔からあるわけだが、これはメモをみる行為そのものを忘れてしまえばほとんど意味がない。むしろメモしたことに満足して頭の中で何回も復唱するというステップを飛ばしてしまうことにもなりかねず、逆に忘れ物を誘発する危険性がないともいい切れない。人に頼む、という方法もある。例えば、○○のことを忘れないように私に注意を促してくれ、などと自分の忘れもの状態を見越して人に依頼する方法である。これもやはり他人が忘れてしまえば意味がない上に、メモと同様の危険性をはらんでもいる。最近では携帯電話のアラームを使う、という方法もある。これはおそらくいろいろある忘れ物防止手段の中でもっとも成功率がたかい。かといって完全に成功するわけではない。なぜなら、何か重要な会議や、飛行機などの乗り物の中で携帯電話の電源を切らなければならない状態になり、その後電源を入れるのを忘れてしまえばこれもやはり失敗するからだ。あと携帯電話のアラームは習慣的な忘れ物防止対策には向いていない。アラームに慣れてしまい、注意を喚起する機能が果たせなくなってしまうからだ。これは毎日同じ時間に鳴る目覚まし時計がだんだん役に立たなくなっていくのに似ていると思う。また、仮にアラームが鳴り、忘れ物をしないように注意する旨のメッセージが携帯の画面に表示されたとしても、運悪くその瞬間に他の重大事に気をとられていた場合、ほとんど効果は期待できなくなるだろう。これはメモや他人を使う場合にはない危険性だ。あいてが「空気を読めない」機械だからこそ存在する欠陥である(メモは必然的に自分がメモを見ようと思ったときしか見ることはないだろうし、他人はこちらが忙しそうにしていたらある程度気を利かせてくれるはずだ)。以上メモ、他人、アラーム、という三つの手段を見てきたわけだが、これらはすべて記憶を外部化するという意味では共通している。そして記憶の外部化を図るときにもっとも致命的な落とし穴となりうるのは、記憶の外部化そのものを忘れてしまうこと、あるいは適切な記憶の外部化に失敗してしまうことである(例えばメモが断片的すぎて何が書いてあるかわからない、他人にうまく内容が伝わっていない、アラームのセット時刻を間違える、等)。三つの手段を使っても結局忘れものをなくす根本的な方法とはならないわけだ。他人の忘れものを責める行為は、それ自体が不当な言い分だということが証明されてしまった。「なんでそんな大事なことを忘れるんだ! やる気がないんじゃないか!」などという人間はやる気によっていかに完璧に忘れものが防止されるのか、その具体的なプロセスを提示できなければ説教をかます資格がないように思える。

★上の話の似たところがあるように思うのだが、ネットで死刑廃止論が話題になると、「当然死刑は必要」みたいなことを言うやつが現れて、「まさに正論」みたいな同意をするやつが現れる。こういうのを見るたびに違和感を抱く。

私は心情的には死刑はあまりよいものではないと思う。死刑とは人を殺すことであって、極めて平凡な感情として殺したり殺されたりということからはできるだけ距離を置いておきたいと思うからだ。しかし、死刑にそれなりの合理性があるということもまた認める。よく言われるように囚人を養うのに金がかかるだとか、再犯を完全になくすことができるだとかの話とはまた別に、それによって大衆の溜飲が下がるということが大きいのではないかと思う。昨年のアキバ通り魔事件のさい、あの通り魔犯人は絶対に死刑にすべき、みたいな話が私の周囲で起こったことがあった。そしてその直後に宮崎勤の死刑が執行された。ウィキペディアの宮崎勤の項にはアキバ通り魔事件と死刑執行の関連性はないらしいと書いてあるが、結果的に大衆を安心させる効果を生んだのではないかと思う。それでそれなりの必然性があって死刑をやるのだという話なのであれば同意しないこともない。

だが、死刑は全くもって正論である、ということが所与の前提としてある奴らは一体何なのかと不快に思う。彼らには自分が死刑囚になりうるという可能性について考えることもないのだろうか。そうでなくとも死刑執行という、人としてあんまりやりたくないし人様にもなかなか言えない仕事をやってる人も世の中にはいるということについて考えることもないのだろか。まあ、私にしたところで考えているほうでは全くないわけであるが、人が殺されたり、あるいは人を殺したりということを社会の一部分に集約させて自分は遠くからそれを眺めてやれ「殺せ殺せ」と叫ぶ様は、さながら幽遊白書の暗黒武術会の観客の雑魚妖怪どもだ。まあきっとそういう大衆のフラストレーションを取り除くために殺人事件なんかは全国に知らされ、大衆は犯人叩きというエンタメによってストレス発散をするのだろう。

というわけで、死刑そのものよりも死刑に無条件に賛成する人々がムカつくという話。