hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

会社帰りに古本屋で浅羽通明の『ナショナリズム』という本を買った。三百円だった。

最近思うのだが、面白いネット上の日記は、たいてい消費行動を軸にして記されているような気がする。特に自分自身の消費行動の記録と、購入した商品のレビューが一番見ていて参考になるし、文章自体がクソつまんなくてもそこそこ読むに値する記事になっていると思う。消費行動をチャンネルとして開いてリンクしあっているようなイメージだ。村上春樹の小説がオシャレだと思われているのも、消費行動の一類型を提示しているからだと思う。消費のスタイルによって自己イメージを演出する、なんていう話はいかにも八十年代的だが、八十年代においてはそういう生き方が差異として使えたのではないかと思うのだけど、もうそろそろ二千十年代にさしかかろうとしている現代においては、むしろ消費ぐらいしか開けるチャンネルがないという絶望的に不毛な地平を感じさせる。ゲームだとかマンガだとかフィギュアだとかのレビューをやってるオタの日記サイトは結構面白いのだけれども、「こいつよくこんなもんにこんなに金使えるな」とか「もう集めることが自己目的化してるんだろうな」とかいう感心とはまったく別のレベルにおいて、「これが消費する動物の最終進化形か」とでもいったような感慨を抱くことがある。オシャレさを演出するために消費するのでもなく、ましてや生活する上での利便性を高めるために消費をするのでももちろんなく、あえて表現するならば生きていくために消費している。生きることが消費と同じことを意味していると言ってもよいかもしれない。消費をすることによって何を備給しているのかはわからない。あまり安易なことは言わないほうがいいのかもしれない。買い物がストレス解消になる、という側面もあるのかもしれないが、単にストレス解消なのであるならば、ストレスがなくてなおかつほかのもので充実感を得ている場合は、ゲームアニメフィギュアへの金の投下は全くなくなり得るということになる。だがオタクはストレスが全くなく美人なリアル彼女と毎日楽しく過ごしていたとしても消費しまくるだろうと私は予想する。よく言われる論に、「オタクはモノの所有欲を満たすために消費をするのだ説」というのもあるが、これにも私は懐疑的だ。もしそれが本当ならば、世の中どんどんオタクが増えてるんだからもっとモノが売れてエンタメ業界は儲かっていないとおかしい。ところが最近の若いオタは明らかに作家のルーツをたどったり知識を拡充することに関して一層怠惰になってきていると思う。それが意味するところは何かといえば、そもそもオタクが好きで買っていると思われていたゲームアニメフィギュアに対する関心が、当のオタクの心の中から失われていっているということだと、少なくとも私の目には見えてくる。じゃあ何でオタクはいまだに消費をするのか。それは ①消費=生存だから ②消費=コミュニケーションだから という風に理由付けしてしまう。②のほうは東浩紀とかその一派によってよく言われる話なのだが、①のほうは私の勝手な妄想で飛躍に過ぎないとはわかっているのだけれども、近頃はこの妄想から解き放たれることがない。なぜなら、自分自身明らかに消化することの不可能なペースで古本を買いまくっているし、それが常態化していて歯止めが利かなくなっているからである。特に浪費をしているというわけでもなく、自分の財布とよくよく相談した上で買っている。古本のせいで身代をつぶすということはこれから先の人生でもあり得そうもない話だ。にもかかわらず、どう考えても読みこなせない量の本を買っている。ただしこれは私個人の体験に基づいて説明した場合の話であり、最近の若いオタに照準を合わせて「消費=生存」説を説明しようとしたら、消費を支える原理が変わって以前と比べて相対的に若年のオタクの消費活動が停滞している、という風に言わないと整合性がとれない。

「消費=生存」説に関しては証明しようと思ったら何らかの実証的な学の方法が用いられなくてはならないのだろうけれども、私にはそのアタマがない。