hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

★今日はアキバにいってブックオフに行き、バッハのCDを買った。カール・リヒターの「音楽の捧げもの」と、誰か知らないドイツの人のバイオリン協奏曲だ。最近バッハを少しだけ聴くようになったのだけど、なぜ聴いているのかというと、ポリフォニックなところが今のお手軽な音楽に慣れた自分の耳には斬新に感じられるから、というのと、均等な長さの音符が音楽的な矛盾なく切れ目なく重ねられていくさまを数学的で面白く感じられるから、というのが理由としてあると思う。

バッハは非常に優秀な即興演奏家であったらしいが、確かに自分でもギターをアドリブで弾いてるときというのはスケール的にハズれのないフレーズを弾くことが多くて、即興演奏そのものが数学的な演奏を呼び出すんではないかなどと考えた。が、バッハの場合は転調なんかも数学的に処理されているように(私が聴いた印象では)思えて、そこらへんがE7一発で十分も二十分もだらだらとアドリブをかますしか能のないエレキギタリストとの決定的な差だ。

★人間とコミュニケーションをとることは生きていく上で必要なことだ。明らかに自分より頭の悪い人間であっても、彼が唯一のコミュニケーションの相手であるならば大切にしなくてはならない。しかし、彼との付き合いが知的活動の障害になることは不可避だ。自分より頭の良い人間とのコミュニケーションであればむしろ知的活動を促進させてくれるだろう。しかし、頑迷固陋な土人たちとの会話は知的生産性の点から言えば時間の無駄にどうしてもなってしまう。ここにアポリアがあると感じられる。精神の健康は適度なコミュニケーションによって保たれると思うが、その適度なコミュニケーションを維持するのにかかるコストが致命的に私の有限の時間を、死までに残されたわずかばかりの有効な時間を奪っている(死までに、などという言葉を使うと大げさに響くが、あと四五十年生きられたとしても読める本はほんのわずかだ)。

頭の良い人間と知り合いたいものだが、そうすると今度は私のほうが相対的に土人なのであり、まともに相手にされることは期待できないということになる。大学院などで学問の世界に身をおいているわけでもなければ、国家的エリートの居る世界に就職したわけでもない私は、それを激しく求めているにもかかわらず、いわゆる「知」から完全に疎外されているような気がする。それこそが私の人生の充実感のなさの根本的原因だ。そうした自分を受け入れられるのかどうかがこれから先の人生の充実度を大きく左右するだろう。

どうせなら明媚な田舎町に家を構えて半生をのんびりと過ごしたいものだが、貧乏人にはそれは許されない。