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読書の感想など

荻原浩『あの日にドライブ』レビュー

荻原浩という名前が本屋に行く度に気になってしょうがなかったのだが、ようやく小説を読むことができた。先入見として、一般的なサラリーマンあるいは誰もが憧れる特殊な業界(メディア・ファッション等)のサラリーマンを主人公とした、「お金や社会的地位よりも大事なもの(例えば恋愛など)を追求した結果お金も社会的地位も手に入れてめでたし」的なお涙頂戴物語あるいは安易な共感を提供する物語なのかと思えば、そういう面が全くないというわけでもないけれども、同じというわけでもない、それなりの独自の内容を持つ小説で、人気がある理由もなんとなくわかった。
この小説は白石一文の小説と比較するとその本質をよく理解できるようになると思う。『僕のなかの壊れていない部分』が、主人公の勝手気ままなドグマの正しさをただひたすらに追認していくためだけの冗長な幼児的小説だったのに対して、『あの日にドライブ』は、精神分析的な去勢による社会化がテーマにある。以前は銀行員として順風満帆な人生を歩んでいた主人公は、ある出来事をきっかけに辞職してタクシードライバーとしていきることになる。そのなかで色々と人生に大切なものを発見していく、という筋立てだ。
両方の小説の相似性をまず述べるとするならば、主人公がエリートであることが第一点、次にその主人公が経済的な危機に陥っていることが第二点である。以上の二つは、誰が読んでもすぐにわかる共通点だ。そして第三に重要なのは、その主人公が共に中二病的な幻想を抱いているところだ。『僕の』で言えば主人公の雄弁や知能がそれであり、『あの日』では経歴や処世術などがそれである。だが当然のことながらそれらの幻想は壁にぶつかる。幻想が即現実に適用されるようには世の中できていない、という認識は両者に共通しているように思う。これを含めれば、四つの共通点があると言うことができる。二作品が違うのはここからであり、その壁をどうのりこえるかという具体的な方法論に分岐点を見出すことができるだろう。『僕の』ではどのようにその壁が乗り越えられようとしたのかというと、個人主義への懐疑である。だが白石一文が滑稽なのは、個人主義への懐疑という認識に至っていない個人はより劣った個人である、というような別の個人主義的ドグマを呼び出していることである。個人主義を否定する人間は、個人主義者をもよろこんで迎え入れなくてはならない。なぜならば、個人主義者が個人主義を信奉しているという事実は、個人主義を否定するのならば、原理的に個人主義者自身の責任には帰することができないからである。対して『あの日』ではどのようにして壁が乗り越えられようとしているのか。実は、壁を乗り越えることそのものを放棄することによってである。それこそが社会化だ。倒せない敵は倒せないと認めていきることが社会化だ。自分の凡庸さを受け入れ、断念しつつ生きることだ。であるが故に、作中の主人公の幻想はことごとく破壊される。自分の経歴を聞いてチヤホヤしてくれる人間などいないし、自分の処世術も職種が変われば通用しなくなるし、密かに自身があった野球も自分には向いていなかったということが確認されるし、昔好きだった女性に対する幻想は、自分の知らなかった陰湿な一面を覗き見てしまうことにより、百年の恋も冷めるといった風情で霧散してしまう。その上でこそ、今やエリートでなくなった主人公は、自分のもといた銀行の上司にも、同じ人間として対等に会話をすることができるようになる。自分の限界を知ることにより、どこまでが自分にできることであるかを逆説的に明確化できるようになる。
上にみたように、この小説は典型的な成長物語として読める。しかし重要なのは単に成長することではなくて、タクシードライバーという孤独で内省的な仕事をしているうちに社会化されるという点である。主人公は自分一人の判断で試行錯誤を繰り返しているうちに、何を基準にどう選択をすればよいのかを学んでいく。この点を「人生の交差点、曲がり直したいと思いませんか?」という帯の文言と付き合わせれば、実はこの小説が自由主義=個人主義をテーマにした小説だということがわかる。実際には主人公は、結果として人生の交差点を曲がり直さないのであるが、ありえたかもしれない自分の別の人生を何度も頭のなかで思い描く。これは自由主義が必然的にもたらす流動性の高まりが帰結することなのではなかろうか。「もっといい人生が自分にはあったかもしれないのに」という不満は、流動性の低い社会では生まれないだろう。そしてこのような不満を持っている限りは、自分以外の人間がうまくやって、自分がいつもうまくやれるとは限らない自由主義的な社会に満足することは永久にできない。自由主義的な社会に満足するためには、結果を受け入れること、断念することが必要なのである。具体的には、自分の選択を受け入れることだ。自分の選択に自信をもつことだ。この点に関して訓練が必要であることは、多くの自由主義者たち自身が述べているところである。そして『あの日』の主人公はタクシードライバーとして修行を積んでいく過程で、この選択の訓練をも同時に行っているのである。そして、自分の選択によって変えることのできる部分と、そうでない部分の見極めを学んでいく。
もう一つ重要なのは、上記の修行を苦痛とともに終えることで、他人も自分と同じような選択を苦痛と共に通過してきたのだという想像力を主人公が養うところだ。一種の公共心や他人の人生への承認を、主人公は学ぶ。
まとめとして、この小説は極めてまっとうで健全な、万人におすすめしたい教育小説だということがあきらかになった。これは国語の教科書にのせるべきだ。それがダメなら社会科の教科書で扱うべき小説だ。荻原浩は天才かもしれない、凡庸な人間の生活に通暁することにかけては。