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読書の感想など

誉田哲也『疾風ガール』レビュー

小説レビュー第三弾。誉田哲也の『疾風ガール』という小説を読んだ。これはちょっと前まで本屋で平積みになっていた本だ。髪の長いネーチャンが綺麗に腋毛の剃ってある腋を見せつけている表紙の文庫本小説だ。
主人公は、おもにアイドルタレントで儲けている音楽プロダクションの下っ端の男。二十代後半。ヒロインは十九歳の女。バンドでギターをやっている。ボーカリストではない。主人公がライブハウスで偶然ヒロインのバンド(ペルソナ・パラノイアという、どこかパパイヤパラノイアを彷彿とさせるバンド名だ)のライブを目撃し、ヒロインだけを引き抜いて自分の会社で売り出そうとするのが話の導入部分だ。
帯にはこうある。

ストロベリーナイト』の著者が放つロック&ガーリーな熱い青春小説!

というわけで、ヒロインがバンドで成り上がったりする過程を描いた話なのかと思いきや、実はまったくそうではなかった。誉田哲也は刑事小説で知られているらしい。それが関係しているのかどうかは知らないが、全然バンド物語ではなく、奇怪な自殺事件を追って主人公とヒロインが調査をはじめる、一種のミステリーである。ここでまず読者は肩透かしを食らった感じを抱くだろう。というか私は抱いた。まあ、ちゃんと裏表紙まで見ればそういう話だということはわかるのであるが、ジャケットと話の内容があまりリンクしていない感じはする。じゃあバンド物語ではないとして、ミステリー小説としてはどうなのか。こっちのほうも中途半端で、単にミステリー的な意匠をまとわせて、薫という、ヒロインが所属しているバンドのボーカリスト(自殺した人物)の人生をたどる、といった話になっている。この小説では別にヒロインが魅力的なわけでもなんでもなく(むしろヒロインはあまり性格的な欠点や弱点のない人物として描かれていて、逆に人間味が欠けている)、この薫君の内的な葛藤などが主要な問題なのである。青春小説、と宣伝しておいて実はミステリー小説である、とみせかけて本当は青春小説である、という二重のねじれがこの小説には存在しているように思える。この中途半端感じのせいで、先週読んだ堂場瞬一の『蒼の悔恨』(今にして思えばどの辺が「蒼」くて、どの辺で「悔恨」していたのか謎な小説だったが)が極めて性的な小説であったのと比べ、この『疾風ガール』では性はあらかじめ封印させられているように思える。主人公はすでに彼女持ちで、別にヒロインと恋愛関係になるとかいう話ではないし、ヒロインも薫のことを尊敬しているというだけで、薫の彼女から薫を奪おうとかいう考えは持たないし、という風に、一見性的なものが大きくフィーチャーされた話のように見せかけて性は遠ざけられている。この中途半端さのおかげで、私としては一層「この小説は一体誰が読んでいるのだろうか」という疑問を大きくさせてしまった。私が想像するに、この小説は売れないのではないだろうか。音楽に関する知識にも怪しいものがある。ビジュアル系的歌唱法を生んだのは氷室京介だとか書いてあったが、噴飯物だ。ビジュ系の歌唱法の起源はデッドエンドにある。デッドエンドの影響を受けたバンドをちょっとあげるだけでも、ルナシー、ラルクアンシエル、黒夢、といった現在のビジュアル系というジャンルの基礎を作ったバンドがほとんど出揃ってしまう。
まあ、ビジュ系はともかくとしても、『疾風ガール』は、一見ポストモダン化したこの社会にうまく適応した、動物的欲望を効率よく満たしてくれる小説なのかと思いきや、実は青年の自殺物語であり、実存垂れ流し小説でしかなかったのである。かといって、完全にブンガクしているわけでもなく、どこまでも中途半端だ。あるいはバカな読者であればこの小説が文学的な問題意識を含んでいるなどと誤読して感心してしまうのかもしれない。本当に気の毒なことではあるが。
総括として、今週の小説はハズレであった。まともにレビューをする気も起きない小説であるということは、今回のレビューの文章そのものが遂行的に示してしまっているかもしれない。『ぼくのメジャースプーン』『蒼の悔恨』と読んできて、面白いかどうかは別としても、それなりに私の知らない社会の側面を垣間見ることのできる小説であった分、実は相当な価値があったのかもしれない。