hkmaroのブログ

読書の感想など

堂場瞬一の『蒼の悔恨』を読んだ

小説レビューの第二弾だ。これは文庫としては今年の四月十七日に発売されていて、一応新刊に属していることは間違いない。
堂場瞬一の『蒼の悔恨』という小説なのであるが、普段主にネットの情報を頼りにして購入する本を選んでいる人々の多くにとって、この作者の名前ははじめて聞く名前なのではないかと思う。私も今やっている小説レビューという特殊な目的意識がなければ知ることなく一生を終えたのではないかと思う。
なぜこの本を選んだか。まず第一に、この本は刑事小説などと言われるジャンル(そういうジャンルがある事自体はじめて知った)に属する小説なのであるが、刑事小説なるものは、一体どういう層の人々が愛好しているのか、という疑問があった。おそらく五十歳以上の男性が主な読者なのではないかと漠然と推測するのであるが、しかし今の時代新人類世代も五十歳である。そうするとあの新人類世代がこんな加齢臭のするジャンルの小説を読んでいるというのだろうか。また新人類より上の世代といっても、今の時代団塊の世代が定年退職するのである。全共闘とかやっていた人々が、刑事小説など読むのか。刑事なんか所詮国家の犬なんじゃないか。そしたら一体だれが読んでいるのだろう、というような疑問が湧いた。
第二に、作者の年齢が後期新人類世代(私は五十年代後半生まれを原新人類、六十年代前半生まれを後期新人類という風に分けて呼ぶことにしている)に属していることに注目した。今現在の社会を中心になって動かしているのは、新人類世代である。社会の立場上、もっとも実質的な社会の原動力になっていると思う。必然的に、新人類世代の活動には一層注目すべきだと考えた。
要するに、世代論的な関心に基づくところが多分にあったわけだが、もちろん若者だって刑事小説を読むのだろうし、実際読んでいるから本も売れるのだろうけれども、そうするとより一層誰が読んでいるのかわからなくなる。少なくとも私の知り合いの若者は刑事小説など読みはしないからである。この謎をとくために、まずは小説そのものを読むことからはじめたい。
まず読んでいて最初に感じるのはあからさまなマッチョイズムだ。主人公の真崎薫は神奈川県警の上司の命令に従わず、勝手に捜査をはじめるはねっかえりの一匹狼的な刑事である。主人公は「裏社会」的なものにパイプが多数あり、そっちの世界の人間達からも一目おかれている。ときにはそんな裏社会の住人たちを金で買収したり、暴力で言うことを聞かせたりしながら情報を引き出していく。まあ、ここまでは別によい。この、ちょっぴりワルなヒーロー、という登場人物の造形がいかにオタク的な想像力と近しいかということは、ここではまあおいといて、重要なのは性がからむ場面だ。そこでは徹底してヒロインは無力であり、男が守ってやらなくてはならない存在だ。女といってもヒロインは女刑事なのであるから、腕っぷしは強くて骨太のマッチョなアマゾネスだろうとつい想像してしまいそうになるのだが、小説のなかではそういう側面は一切登場しない。常に不幸のただなかにあり(といっても成金会社の社長令嬢なのだが)、主人公が守ってやらねばならない不安定な立場である。理由もなく唐突に主人公のことを好きになるのもまあいい。恋仲になったその日にセックスをするというのも別によい。そういう物語は世の中どこにでも溢れていて、別にオタクが好きなラブコメとかエロゲーだとかに限った話ではないからだ。だが一点だけ気になる箇所がある。主人公がヒロインのことを好きだと告白する場面だ。ヒロインは、今まで人から好きだといわれたことがない、といって泣く。二十八歳のイカちい女刑事にそんな反応をされても実際は困るだろうが、小説の中では美しい場面として演出されている。こういう処女信仰はオタクの想像力ともっとも近いところにある。私自身オタクであるが、こうした処女信仰がどこから湧いてくるのかは本人にすらわからない。オタクが一貫性を求める性質をもっているのだ、とは言えないように思う。そしたらオタクは持っているエロゲーを全て捨てるべきだ。刑事小説とは全部このような調子なのだろうか。主人公にトラウマがあるところもオタクの中二病などと言われる妄想に頻出の設定だ。まとめると、トラウマを持った、超強くて反権威的な一匹狼の主人公が、裏社会につながるパイプを通じて捜査をしているうちに、美人で育ちが良くて何かと先走りがちな妙齢のかよわい女性と知り合い、セックスをして、最後には愛のパワーで悪者を追い詰める、という話だ。似たようなエロゲーは死ぬほどある。ではどうして作者はエロゲーのシナリオライターではないのか。それは登場する固有名詞群にヒントがあるように思う。エロゲーであったら、ライターとユーザーの共同性をあてにするために2ちゃんねる用語が飛び出したりマンガ・アニメからの引用が行われたりするのであるが、『蒼の悔恨』ではなんとなくオシャレっぽいブランド名などがその役割をになっている。単に準拠集団が違うだけで、両者の間に本質的な違いはなにもない。こうした共同性をあてにする態度を明快に指摘したのは、大塚英志の『サブカルチャー文学論』だと思う。そのなかでは村上春樹とアメリカンポップカルチャーとの組み合わせがそれだと指摘されていたように思う。また、宇野常寛が批判するレイプ・ファンタジーの世界であれば、(こんな俺がこんないい娘を犯していいのか……!)的な反省がはさまるのであるが、『蒼の悔恨』にはそういう「安全に痛い」自己批判は存在していない。かわりといってはアレだが、主人公のセリフが妙にオタク臭い。つまらないジョーク。エロゲーだったら未読スキップをかますところだ。気の利いた会話を演出しているつもりなのだろうが、単にキモいだけだ。
以上にみたように、この小説はオタク的想像力からさほど遠くはないどころか、むしろかなり近いところにあるとしか思えない。一般人に売れるとされているエンターテイメント小説は、実はライトノベルやエロゲーのエピゴーネンでしかない、という驚くべき事実は、我々に新しい枠組みを提供してくれるように思う。つまり、一般エンターテイメント小説を読むくらいであれば、ライトノベルを読む方が断然先端をいっている、というわけである。『蒼の悔恨』が示すオタク的想像力は、セカイ系批判を通過し、犯罪者予備軍呼ばわりされるのに耐えてきたオタクからすればもはや乗り越えられたものだ(もちろんそうでないオタクもたくさんいるだろう。最も若い世代のオタクは、無自覚にマッチョイズムを肯定してしまうかもしれない)。別の可能性としては、従来の刑事小説(や一般エンターテイメント小説)が築いた伝統を正当に受け継いだのが実はライトノベルであって、現在の刑事小説や一般エンターテイメント小説には二流しか残っていない、というケースが考えられるが、これは考えるほどにバカバカしくなってくる説だ。
当然、堂場瞬一の『蒼の悔恨』が一般エンターテイメント小説界において極めて特異なオタク的性質に溢れた小説であり、その他の小説はやはりオタク的想像力から画然と峻別されるものであるのならば、今回の私の考えは全くの妄想にしかすぎないということになる。だが、今まで私が読んだことのある一般エンターテイメント小説に即して言えば、あながち間違っているとも思えない部分がある。
次回は、今回の読書から得られた仮説を元に、別の一般エンターテイメント小説を読んでみる。誉田哲也という作家の小説、『疾風ガール』だ。誉田哲也堂場瞬一と同じく刑事小説を書くエンターテイメント作家であり、ここに共通点をみることができるように思い選んだ。なぜ『疾風ガール』なのかと言えば、つまりなぜ刑事小説でないものを選んだのかといえば、それが新刊だったからだ。仮に次回において今回の得られた仮説を裏付けるような結果が出たら、オタク向けのラノベやエロゲーは、目に見えるよりもはるかに示唆に富んだ分析対象である、ということが言えると思う。少なくとも一般エンターテイメントの領域を含むような形で、それは文化的に他の領域にまで広がっていると言える。