hkmaroのブログ

読書の感想など

『かもめ食堂』を観た

ツタヤに行くと邦画のコーナーで激しくレコメンドされているのが気になり、ついかりてしまった。こういう映画をみるのは癒しとかを求める心性からなのだろうか。それともおしゃれそうだからか。三人の女性たちのいずれもが、いわゆる美人女優を起用してないところがよいのかもしれない。三人とも、そういうモテるモテないとかいった次元からは解放されている。かもめ食堂は無害な共同体を形成しているように思う。宮台真司が、その代表的著作である『サブカルチャー神話解体』で「無害な共同性」という言葉を『うる星やつら』にみられるような小世界の日常のドタバタを演じる共同体にあてはめたのが、最初ではないかと思う。かもめ食堂も「小世界+日常」という属性においては共通しているのだが、その舞台が日本ではないところは注目すべきかもしれない。小世界であるようにみえて、よく考えてみたらじつはそうそう小さい話でもない。おにぎりはやっぱり梅おかか鮭じゃないとダメ、外国でもそれで通用するはず、みたいなことを店の主人は言うけれども、別に日本の文化の普遍性を主張しているわけでもないし、お客との交流を描くことも映画の中心的なテーマではない。実は心の交流がテーマではないのだ。その証拠に、主人公の店主以外の日本人はフィンランド語をしゃべることも理解することもできない。それで心の交流ができるわけがない。心の交流ではなくて、では何が描かれているのかというと、空っぽだった店に客が入ってくるようになる過程のみである。そして、かもめ食堂がはじめて満席になった日、主人公の心象風景的なシーンで、プールに浮かんだ主人公が大勢のフィンランド人たちに拍手をされる。このシーンは正直いってゾッとする場面だ。エヴァンゲリオンの最終話よりも恐ろしい。唐突すぎる。フィンランド人の客は、同じ人間として想定されていない。コーヒーやメシでつながっているのみだ。何か問題が起こると、とりあえずメシを作って食えば、なんとなく解決したりする。心の交流をする相手ではなくて、劇中では明らかにされていないが、日本における人間関係に何らかの問題を抱えた三人の女性が、自分をリセットしにフィンランドにやってきて、リセットした心がもう一度ホメオスタシスというか力を取り戻していく、その過渡的な状況を測るバロメーターに、フィンランド人はなっている。つまり、擬似的な承認を与えてくれる相手なのだ。オタクに対してエロゲーの美少女が果たしている役割とそう変わらない。そして客がどんどんと増えていく状況を見ているのは気持ち良い。映画を見ている人間にその感覚は多分伝わるだろうと思う。南葛中が日本一になり、やがて日本代表に選抜され、最後には世界一になる、その過程をみるのと基本的には同じだろうと思う。そういうドラクエ的な発展過程があり、その気持ち良い発展途上の状態のままでいたい、という欲望が表明される。ミドリが、日本に帰りそうになるマサコについて、寂しさを吐露する場面だ。店主であるサチエは、マサコの選択をよろこばなければ、と言うが、結局マサコは戻ってくる。無害な共同体は保存される。
この映画からは、結局等身大の女性を肯定する、的なメッセージ以上のものは読み取れないが、だからこそ人気があるのかもしれない。もしかしたら私が考える以上にこの映画は深いテーマを扱っていたり、あるいは映画的な魅力を持っているのかもしれないが、映画に対して完全な素人である私にはわからない。