hkmaroのブログ

読書の感想など

ミヒャエル・ハネケの『71フラグメンツ』を観た

あんまり映画はみないのだけど、ミヒャエル・ハネケの映画は『城』をみたことがある。そのときからなんか淡々としている映画だなと思っていたけれど、やっぱり淡々としている映画だった。DVDについてるインタビューを見ていると、短絡化を拒む態度を自覚的にとっているらしいということがわかった。確かに映像もそういう感じになっている。レッテル貼りをやめよう、という主張らしい。そして、そういう主張は「○○から遠くはなれて」いることを自覚する精神なんだろうなと思った。
映画の中ではたくさんのニュースが流される。それらはニュースを見ている主体からすれば、遠い場所での出来事である。この映画が描いているのは、そういう遠くからニュースをみて楽しんでいた主体が、ニュースで報じられている事件の当事者となってしまった場合である。当然のことながら、当事者になったら遠くからながめる人のままではいられないわけであるが、そのニュースはマイケル・ジャクソンの性犯罪疑惑というゴシップや、遠い国の紛争のニュースと同列に報じられてしまう。そういう短絡的な考え方を、街中でいきなり鉄砲を打って人殺しをして自殺した大学生を、「イカれてる」の一言で短絡化させ理解可能にし安心する態度をやめよう、という主張があるように思えるのだが、しかしこのような私の映画に対する理解も、一種の短絡化の産物なのかもしれない。本来映画は映画でしかないのに、それを言葉に言い換える時点で短絡化は必ず紛れ込んではいるであろう。
だが世の中にはそうした短絡化をせずに、この世は未確定なものだらけで安心できるものは一つもない、という風に生きることに耐えられない人々がいる、というか人間とはそうしたものだと思う。フレーム問題なんていうのも、こういうことと関係があるのかもしれない。人間は一度認識したものを、差し当たって変化しないものとして受け入れないと、一瞬一瞬違うものに変化し続けているのかもしれない世界のなかで生きていけないのだろう。私の部屋も、私が気づかないだけで本の配置が毎日変化しているのかもしれない。あまり戸締りに熱心でないので、そうなる可能性ならあるのであるが、実際には本の配置など何も変わっていないという前提で私は生活している。物だけでなく、人間にもレッテル貼りは必要だ。特に友人関係や知人関係はこうしたレッテルを固定することで円満に成り立つ。
人間にはそもそもレッテル貼りをしないで生きていくことが不可能であるならば、レッテル貼りによって生まれる負荷をどう処理すればいいのだろうか。これはジレンマのように思える。悪人をこしらえて非難していれば、そうしている間は楽しい。自分が正義だからだ。そして「自分は正義だ、少なくとも悪人ではない」という感覚がなくては、健康的に生きていけない。しかしレッテルを貼るということは現実とのズレが少なくとも広がっていくということであり、悪人は本当は善人なのかもしれない。すると善人のことを悪人だと言っている自分のほうが悪人ということになる。
私はレッテル貼りは必要だと思う。アイツはバカだと思ったら、その相手とはなるべく付き合わないようにする、といった判断は人生において非常に有効に機能すると思う。だけどそれを時々更新しなければいけないのだ。で、どうやって更新するのだろう。手痛い失敗を味わうことによってであろうか。そうだとしたら、対策などなにも立てられないので意味がない。色即是空と唱えて解脱をするしかないのだろうか。