hkmaroのブログ

読書の感想など

辻村深月の『ぼくのメジャースプーン』を読んだ

これからは週に一回のペースで小説のレビューめいた記事をアップしようかと思う。無定見に書いていても仕方ないので、ある程度の指針を明らかにしてみたいと思う。
まず総則的な大きな目的として、現代日本の社会に住む人々の精神性を少しでも知ることがある。そもそも小説を読むことが今の時代人々の精神性を知ることに資するのかどうかという疑問がわかないでもないが、それならそれで全体性を諦めて、現代日本の社会に住みかつ小説を読む人の精神性を少しでも知ることが、最低限の大きな目的である。
そこから導き出される細かい条件として、第一に、文庫のみを対象とすることを条件としたい。なぜならば、現代日本の社会に住みかつ小説を読む人は、その大多数が文庫形式で小説を読んでいるであろうからである。数字でそのことを確認するためには、オリコンのサイトを見てみるとよいと思う。そこでは書籍総合と文庫のみとで別々のランキングが閲覧可能であるが、そこの推定売り上げ部数について、書籍総合の中で小説に限ってみてみると、一番売れているもので湊かなえの『告白』が(2009年5月28日現在)一週間で大体一万五千部強売れており、累計で約五十二万部売れているが、この累計の部数は極めて例外的に大ヒットした数字だろうという大雑把な推測は、他のランク入りしている単行本小説の部数を見れば禁じえないところである。例えば、それに続く単行本小説である東野圭吾の『パラドックス13』は週間で約一万一千部、累計で約十二万部といったところである。発売日を考えるならそうでもないのかも知れないが。次いで文庫についてみていくならば、外国人作家のものは除くとしても(なぜ除くのかは後述する)、一番うれているもので伊坂幸太郎の『重力ピエロ』がだいたい四万五千部売れており、累計では四十七万六千部で、他のランク入りしている小説も見てみるならば、週間、累計、ともに単行本小説と比較して売り上げ部数の差は明らかであった。売れている部数のみならず、文庫本はその扱う小説ジャンルの多様性も考慮にいれるべきだろう。SFなどのいわゆるジャンル小説は、より一層文庫本でよまれる割合が高いという推測が成り立つ。ライトノベルなどは、そのほとんどがはじめから文庫で出版される。価格の差にも注目したい。単行本は文庫本のおよそ二倍から四倍の間の値段で売られている。そうすると、単行本で小説を買う層は相対的に高い動機付けを持っているということが言えるだろうと思う。ところであまり高い動機付けを持つ層は、日本人一般を少しでも広く語ろうとする際に例外として扱わねばならなくなるだろう。湊かなえの『告白』は、その意味で例外の「例外」であり、単行本でありながら広い範囲の読者層周辺について考えるに当たって有益な分析対象となりうるだろうと思うが、その線引き判断が恣意性にさらされないとは言いきれないので、形式的に文庫のみを扱うことにしたい。
第二に、文庫の中でも、その時点で書店の新刊コーナーにあるもののみを対象としたい。アマゾンのようなネットショップの場合は、一律に半年以内に発売されたもののみを形式的に対象とすることにする。半年というのは長いかもしれないが、書店においても映画化などによって二三年前に出た文庫が新刊コーナーに置かれることがあり、それとのバランスをとるためである。新刊のみを対象とするのは、もちろん現代日本に照準を合わせているからなのであるが、「いやいや、夏目漱石の小説は現代の日本人にとって重大な影響を与えているんだから新しい小説なんかよりむしろこっちを読むべきだ!」という反駁も成り立ちうるけれども、そうしたことを気にしていてはキリがないし、実際に現代人が何を受容しているかというものさしにピントがあっていないように思う。
第三に、販売部数でなく読者の共同性の有無を基準にして本を選ぶ、ということを条件としたい。第一の条件を決めるにあたって販売部数という要素を臆面もなく使っておいて恐縮なのではあるが、例えば赤川次郎や西村京太郎と、島田荘司笠井潔とでは、売り上げで言ったらどっちも売れてるんだろうけれど(というか後者のほうが少ないんだろうけど、多分)、読者共同体の強度は明らかに後者のほうが上なのではないかと推測できる。そうした共同性がニッチ的な例外を作り出してしまうことは疑いえないが、逆にそのような読者共同体が何もない本を語ってもやはり詮無い。数え切れないほどの人が赤川次郎の本を読んだであろうが、その読書の経験がどういう人にどういう影響を与えたか分析するのは、砂漠の中から云々といった話であり、まるで現実味がない。しかし要はバランスの問題なので、上に挙げた作家の中でも笠井潔を扱うことはまずないであろう。個人的には好きなのだが。
第四に、やはり日本人の書いた小説に限りたい。これは、いかに世の中がグローバル化していると言えど、作家から読者へ、読者から作家へ、という影響関係のフィードバックが循環しているのは同じ日本人同士の間だけだと考えられるからである。外国人作家の小説はときには売れるかもしれない(事実、現在の文庫本売り上げランキングは三位までダン・ブラウンという外国人作家の小説で占められている)。だが、外国人作家は日本の読者よりも自国の読者の意見や感想を重視するだろう。自国でよりも日本においてのほうが売れているというならば話は違うかもしれず、そのとき彼は日本に準拠して小説を書いていることになりうるので、検討してみる価値はあるかもしれない。が、やはりここでも形式を重視したい。これは恣意性をなるべく排除するためである。
以上四つの条件を自らに課し、レビューめいた文章をアップしていくことにしたいと思う。この中でも第三の条件は形式に徹しきれなかった嫌いがあるが、単に売れている本について語ることは、色々な人がすでに行っている中、無学な私までもがそれをやらなくともよいだろうと思うし、そういう小説は、実はいつの時代にもいる非常に流動的な層が読んでいるのではないかと私は考えているので、私の手にあまるだろうと考えるから、別の基準を採用せざるをえなかった。
さて、記念すべき第一弾であるが、辻村深月の『ぼくのメジャースプーン』という小説をレビューすることにした。これが四つの条件をクリアしているかどうか検討してみよう。
1 間違いなく文庫本である。ISBN-13: 978-4062763301
2 2009年4月15日初版発行で、新刊のコーナーにまだおいてある本屋もあるだろう。実際私は5月27日に書店の新刊のコーナーで購入した。
3 これを判断するのは難しかった。なにしろこの作家の本を読むのははじめてだったから。しかしインターネットを使えば辻村深月の小説が、一般向けミステリーを読む層と一般向け小説を読む層の両方に読まれていることがわかる。一般向けミステリーと一般向け小説ではあまりに幅が広すぎてどこを指しているのかわからないかもしれないが、普通にランキング入りする小説のジャンルだと考えれば間違っていないように思う。潜在的読者層は広そうだが、この第三の条件をクリアしているかどうかは微妙なところと言わなければならない。
4 何らかの偽りがない限り日本人と判断してよいと思う。
以上のように、完全に条件にかなっているとは言い難いのではあるが私の選別能力のなさであるとか、書店の新刊コーナーの配置の問題などから、この小説を選ぶことになった。
では作品のレビューに入りたいと思う。ネタバレを含むのでご注意ください。

まず重要なのは、ヒロインであるふみちゃんがブサイクである点だ。クラスメイトからも若干イジメじみた仕打ちを受けている。にもかかわらず、クラスのなかで「ぼく」だけはふみちゃんの良いところを知っていて、「ぼくが一番いいと思ってる子」なのである。顔は良くない。けれども、顔以外は全て良い。とくに頭はとびきり良い。性格はもっと良い。その頭の良さや性格の良さを「ぼく」だけはよく知っていて、ふみちゃんのことが好きである。この構図はどこかでみたことがあるという思いを抱く。私の聖典、『サブカルチャー神話解体』(以下『サブカル解体』と呼ぶ)には、「乙女ちっく」という、サブカルチャーの歴史に一大画期をもたらした少女漫画の潮流が扱われているのであるが、この「乙女ちっく」の特徴は『サブカル解体』によれば、以下のようである。

「乙女ちっく」マンガでは、この「<私>らしい私」(筆者註:<私>とは『サブカル解体』の定義によれば、「周囲の大人のみならず同世代にも馴染めない「私にしか分からない<私>」」であり、「それは周囲からの疎外感に悩む一部の女の子たちに「これってあたし!」と熱狂的に受け入れられた」とある)の肯定は、たいてい恋愛の成就を通じて獲得された。人より内気すぎたりドジだったりで、劣等感に悩んでいる<私>。でもその<私>を、男の子がまるごと好きになってくれることで、自分でも肯定できるようになる。たとえば最も典型的なストーリーは次のようなものだ。内気な少女が、ある男の子を好きになる。ところが彼女は、彼がずっと美しく大人っぽい女の子と仲良くしているのを偶然目撃する。彼女のほうが、ドジな私なんかよりずっと彼にふさわしい、もうダメ…。と思っていたら、彼が最後に「ありのままの君がずっと好きだった」と告白してくれて、メデタシメデタシ――。

言い換えれば、疎外されたダメな<私>が、<私>をダメなところまでひっくるめて受け入れてくれる王子様的な男の子の登場により、自己を肯定できるようになる、という話である。同じ構造は『ぼくのメジャースプーン』にも明らかに見いだすことができるように思う。ふみちゃんのダメな点、言い換えれば弱点は、ブサイクなところである。けれども、「ぼく」だけはふみちゃんの顔を気にしないし、その弱点を勘定にいれても「ぼくが一番いいと思ってる子」である。つまり「ぼく」は明らかに「乙女ちっく」マンガにおける「王子様」の役回りを与えられている。その裏付けとして、「ぼく」の「ぼくはふみちゃんと仲がいいことが自慢なんだ」というセリフは、ふみちゃんの「そんなこと、初めて言われた。どうしよう、ふみと仲がいいこと、自慢なんだって」という反応を引き起こしている。そしてふみちゃんは、逃げ出そうとしていたピアノの発表会に出るのである。
ふみちゃんの「乙女ちっく」な「<私>らしい私」を演出するアイテムとして、うさぎであるとか、メジャースプーンであるとか、ふくらし粉であるとか、オレンジ色のゼリーであるとか、その他様々なものがある。しかし、その中でも一番重要な、私の第二聖典、『サブカルチャー文学論』の用語で言えば「移行対象」(これはマジックワード化する危険のある言葉だが)であるうさぎは、「現実を消費する」「悪の王様」志望者である医学部生、市川雄太(この人物だけフルネームが明らかにされていることは少し興味をひかれる点だ。対称的に主人公であるはずの「ぼく」には名前がない)により殺害される。自己を守り、あるいは肯定してくれる繭を破壊されたふみちゃんは、無表情で何もしゃべらない人形のようになってしまう。
ここまでを読むと、「乙女ちっく」でしかない自分に自覚的な物語なのかと思える。しかし、結論から先にいうとそうではない。なぜか。第一に、この世の悪という悪が市川雄太へと集約されて表現されているのがポイントだ。確かにふみちゃんを軽んずるクラスメイトたちも「ぼく」は批判するが、市川雄太には、クラスメイトにすらあった倫理が欠けているとされている。つまり、クラスメイトはこちらがわ、市川雄太はあちらがわ、という線引きがはっきりとされている。第二に、その悪を名指しで攻撃することによって、その反対側の極点にいるふみちゃんは、限りなく絶対的な善として描かれるということである。これによって逆説的に、ふみちゃんの繭は完成する。誰もふみちゃんの正当性を覆すことはできなくなる。このことは、小説の内部において、「ぼく」と大学教授である秋先生とのしゃべり場的対話篇の中で思弁的に表現されている。被害者である、ということによって被害者は正当性を得るのだと述べられている。
そして「悪の王様」である市川雄太に対して、「ぼく」は断固決然と立ち上がり、特殊な能力でもって、言い換えれば法の外側で暴力的に報復を加えようとする。そのことは秋先生も「嫌いじゃない考え方」などと言ったりして、まるで半ば許容しているかのようだ。この小説では、悪者は悪者であるがゆえに何をされても文句は言えない。途中「ぼく」は悪者と対話すべきだという考えを秋先生に述べ、悪者と対話する必要などないと主張する秋先生と対立するが、結局「ぼく」が選んだのは悪者と対話しない道である。特殊な能力=暴力的手段を行使した時点で「ぼく」は土人の類に堕落している。
面白かったのは最後のほうのシーンで、「ぼく」が、本当はふみちゃんのことを好きなんかじゃないんです、などといって自己批判をはじめるところである。その「ぼく」の告白を聞いて、秋先生が、君のその感情こそが愛なのだよ、的なことをいって承認を与える。
以上のプロセスを、我々はどこかで見たことがないであろうか。そう、私の第三聖典、『ゼロ年代の想像力』において苛烈に批判されているレイプ・ファンタジーと相似形の発想がここには見て取れるのである。レイプ・ファンタジーとは何であったかを、ここに引用してみよう。

『AIR』などのポルノゲームについても、(決して援助交際的な欲望そのものは否定しない)「安全に痛い」自己反省が劇中に盛り込まれ免罪符として機能し、消費者たちがその女性差別的な暴力性を自覚することなく、むしろ「自分は反省しながら萌える優しい人間だ」と思い込む構造(レイプ・ファンタジー)が支持される。

より抽象化すれば、自己批判を挟むことによって、当の批判したそのことを正当化してしまう、という構造なのである。例えば、罪悪感を感じながら盗んでいる俺は、それを感じずに盗んでいる者よりも正義に近い、と考えるような思考のプロセスである。この「安全に痛い」感じをこの小説に見出さざるをえない。
まとめとして、「乙女ちっく」との類似といい、レイプ・ファンタジーとの類似といい、この小説には自己肯定願望が充溢しているといわざるを得ない。この小説を読んで、泣ける小説としてグッときたり、あるいは「これってあたし!」と思えるような瞬間があった場合、その読者は幸福な時間を過ごせるだろう。ネオコン的正義を振りかざす側面が存在することも気になるところだ。市川雄太は「ぼく」サイドの人間からみたら「悪の枢軸」でしかない。火曜サスペンス劇場にすら存在する、「犯人の側からの視点」が一切欠けている。いくら社会が複雑化不透明化して不安になっているからといって、こういうレッテル貼りが普通に行われているのだとすれば、そのほうがゾッとする世の中である。読者が過度にこの小説に感情移入しないことを望む。現実と虚構はわきまえるようにしてもらいたい。一般人諸君はオタクを叩く際にいつも言っているのだろうから、きっと自身は朝飯前にやるのであろう。
仮にこの本が現代の日本の社会の状況をそれなりに反映しているのであるとするならば、非常に興味深く読めるだろう。想像力を育てるために読みたい一冊である。