hkmaroのブログ

読書の感想など

『ビルマの竪琴』を観た

小さい頃に、カラー版をテレビでやっているのを家族で観ていたのを覚えている。その頃は、たとえ食事の時間以外でも茶の間に家族全員がそろってテレビをみたりして過ごすのが普通だった。今の時代と比べてみると「家族の団欒」などと言われるものがいかに減ったのかわかる。私の実家の田舎においても、古い感覚を家族の中で一番強く持っているはずの祖母が、一番自室にこもる時間が長いように思う。若い世代に限った話ではないのだ。
ところで『ビルマの竪琴』についてだが、水島という主人公の兵隊が、ビルマでの戦いにおいて英国の軍隊の捕虜となった際に、ある出来事をきっかけに隊とはぐれてしまい、僧侶の振りをしてビルマで過ごす、という話である。有名なのであらすじは特に述べる必要はないかもしれない。
なんで水島は日本に帰れないのか。作中では、同胞の亡骸を至る所に見てきてしまって、それを放っておけなくなったからだ、と一応説明されている。普通に鑑賞していると、なんとなく納得して感動して泣いてしまうところなのであるが、しかしこれはかなり奇妙な理由である。放っておけないのであれば、そのことを隊の仲間たちにも伝えて、死体の埋葬作業を手伝ってもらうように頼んだりするのが普通の考えだと思う。それを無理やりに個人化して内面の問題として扱って、一人黙々と作業をせねばならない積極的な理由が見出せないのだ。故に、感動しつつも奇妙な感じがする。それでも感動するのはなぜなのだろうか。
自分なりに考えて見たところを書いてみたいと思う。まずはじめ水島は、国民国家的なナショナリズムと合理的精神が混ざった性格を持つ人間として描かれる。降伏しようとしない頑固な日本兵たちを、砲弾の飛び交う中をくぐり抜けて説得せよという危険な任務にも、わずかにためらうだけで承諾するし、その説得の際の言葉は、生きて帰って復興のために働くのが真に国のためなのじゃないか、頑固に戦って犬死するのは自己満足なのではないか、というような話である。彼の主義主張をもっともわかりやすく伝える場面だ。
そんな合理主義者の水島であるから、助けてもらった僧侶に恩を仇で返すような真似をしても、僧侶の振りをして現地人を騙してでも、生き残って隊にもどろうとする。道中日本兵の死体をたくさん見るが、ほんの数名火葬するだけで、全員を葬るのは無理だと判断して先を急ぐ。
ここまでは水島の根本を揺るがすような何かが起こったわけではない。しかし、キリスト教の信者たちが名前も知らない日本兵の死体を、わざわざ墓まで作って埋葬している光景を見ることで、彼の内面に普遍的な問題が浮かび上がってくる。彼にとって、日本兵を葬ることは、単に同胞を葬ることと同じではなくなったのではないだろうか。そしてその問題の本質は、人間にとって社会にとって役に立たないものが、やはり人間にとって重大な影響を与えうるし、実際誰でもいつでもそれに直面しうるということだろうと思う。
この問題は、以前に三崎亜記の『となり町戦争』について書いたことと関連すると思う。『となり町戦争』においては、「僕」がいかに死=リアルを感じることができるか、ということが主題になっていた。なぜ「僕」が死=リアルを感じられないのかと言えば、「僕」の周囲の社会的現実が「僕」の預かり知らぬ場所で進行していて、それに積極的に参与することができない、ないし参与できても失敗することが運命付けられているからであった。それに対して『ビルマの竪琴』は、死=リアルに対面してしまった人間と、それとの対面を回避して社会に戻る人々との対比を描いている。水島は物理的にはいつでも社会に戻ることができた。しかし、死=リアル(この言葉と「現実」という言葉はここでは区別しておく)を知ってしまったがゆえに社会に戻ることができなくなったのである。『となり町戦争』の「僕」は、最初から社会に参与できない人間としてあるのだが、であるがゆえに死=リアルについて知ることができない、という風になっている。ここに、両作品の表現の違いをありありと見て取ることができよう。つまり、社会が死を内包するものとして描かれるのか、それとも死を忘れ去るものとして描かれるのかである。だが実は両作品は同じ認識のもとに社会を捉えているのだ、ということも可能であるようにおもう。それは、「社会は死=リアルを内包しているにもかかわらず、それを忘れ去ることでつつがなく運営されていくものだ」という認識である。
人間はそれを忘れることでうまく生きていくのかも知れない。仕事を忙しくして、人付き合いを忙しくして、勉強を忙しくして、家族の世話を忙しくして、遊びを忙しくして、そうしている間は人生に対する充実感や達成感はえられる確率が高いだろう。しかし、忙しくすることができないよう運命付けられている人もいる。なぜそうなるのかと言えば、ある社会では民族が関係しているかもしれないし、別の社会ではそれ以外の要素が関係しているのかもしれないが(水島や「僕」のように)、彼らは疎外感を基礎にして、現状に対する否定性を育むだろう。その否定性は実存の源である。そして実存はしばしば社会と対立する。実存の由来をたずねればそれは当たり前のことなのかも知れない、などということを映画をみながら考えた。だが水島の悩みは、実存の問題のように見えて、実存の問題ではない。彼自身の固有の悩みはどこにも描かれていない。ただ何かがそうさせる、というようなことが説明されるだけだ。人を葬るという行為は文化のはじまりであると学校で習った記憶がある。同じく、無名の戦死者を弔う墓の存在は国民国家の必要条件だと聞いたこともある。この映画には、安い言い方だが人間に普遍的なものが描かれているから感動できるのかも知れない。両手で顔を覆って死体の山を通り過ぎるシーンは、象徴的な場面だと思う。普通に日常を生きている普通の人間が忘れたことにしている何かをえぐりだそうとするだろう。戦争映画だとかヒューマンドラマとして短絡化されて伝えられるべきではないように思う。