hkmaroのブログ

読書の感想など

現代的なディスコミュニケーションについて

この記事をもってkaza526さんのコメントへのお返事とさせていただくとともに、この話題については一旦締めとさせていただこうかと思っています。すみません。kaza526さんはまだ続けられたいそうなのですが、言葉がほとんど通じていないことを痛感し、このままでは互いに自分の意見を長文で主張し会う、まことに不毛な議論に陥ってしまうことが目に見えていると感じるので、もう一度kaza526さんのコメントを(この記事のコメント欄にでも)もらったところで締めとさせていただきます。あしからずご了承ください。

文学は誰かに読み方を強制されるべきでない、人には人の、それぞれ固有の読み方が許される、そして、自分の頭で考えることが重要なのだ、と、文学青年だったころの(今でも普通の人から見ればなまっちろい小太りの文学青年なのかもしれないが)私は考えていた。別にそのこと自体は否定しない。なにより、勝手気ままな読み方は可能だから。現実問題として可能になっていることを、許されないなどと言ってみてもしかたがない。そして、評論家や批評家の言葉も、勝手気ままな読みがまず最初にあってそこから生まれてくるのだということも確かなことだ。だからといって評論家や批評家の言葉を全く無視すると極めて幼児的な読み方しかできないのも確かなことだろう。
例え話をするならば、今若者にもっとも読まれている「純文学」作家といったら村上春樹だという気が私にはするが、彼の熱心な読者たちにどのへんが良いのか問いただしてみると、それぞれまるで意見が違うことに驚く。ある人は、登場するヒロインが魅力的だ、などと言って恋愛が主題の小説として読んでいるし、ある人は短編にとんちが効いていて良い、などと言うし、ある人は「孤独感」「絶望感」について語るし、ある人は個人主義と自由について語る。村上春樹と同世代の人間達が語っている本などを読むと、彼の小説は全共闘の問題意識を引きずった小説だ、ということになる。最後のものなどは、ほとんどの若者が予想だにしない読み方だろうと思う。
もう一つ例を出すならば、太宰治の『人間失格』は、思春期の若者が読んで「自分のことが書いてある!」と驚く小説なのだとはよく言われる。言い換えれば、「自分だけが太宰をわかっている!」という感情を生み出す小説だ。しかし、この小説を二十をすぎてから読んだ私は、ところどころ笑いながら読んだ。全然自分のことが書いてあるなどとは思わなかった。別に私の読み方が正しいのだなどとは口が裂けてもいうつもりはないが、このように複数の読み方が小説にはありえて、勝手気ままに読むだけでは、ありえたはずのもう一つの読み方に気付かないかも知れない。そして、太宰治の小説は実に笑える小説だ、という感想を聞いて「太宰をバカにするな!」などといって噴き上がる人間を生むかもしれない。
かく言う私も、人生のカベにぶち当たったときにカフカの小説を読んで、ここに自分のことが書いてあると驚嘆した人間の一人だ。しかし、その後でドゥルーズ=ガタリの『カフカ』を読んで、自分の読み方がいかにあり触れた凡庸な読み方だったのかを知った。「孤独」「絶望」「不条理」そういった言葉はいかにも文学的でロマンチックだ。だが「誰にも理解されない私」は、実は「誰でもそう思っている私」でしかなかった。
好きなように文学を読んでもかまわないという主張の根拠とはおそらく、「人間にとって普遍的なことが書いてあるんだから、きっと理解できる」だとか、逆に「読み方は人それぞれ。それぞれが正しい読み方」だとかいう話なのだろうが、これは本当に幼稚な自己肯定願望しか表していないという風に思える。まず「きっと普遍的に理解できるよ派」だが、どういった根拠でそんなことをいうのだろうか。これは最も陥没した目線に基づく意見で、まともに取り合うに値しない。文化や風習を超えて人間には本質的に共通する美的感覚があるのだろうか。確かにないとは言いきれない。だが、同時にそれが具体的に何なのかを論証することにも、だれも成功していないように思える。いや、どこかで誰かが解明しているのかもしれない。だが、少なくとも私及び私の周囲に知っている人はいない。これはとりあえずそんな普遍的感覚はないとして議論するのがよいのではないだろうか。そして、そんな普遍的感覚がないのであれば、やはり作品が書かれた文脈、例えば文化や歴史などの前提を押さえておくことは望ましい。というか本当は必須だ。
だいたい、なぜヨーロッパ人の文学が日本人に理解できるのかを、不思議に思うべきなのだ。自国の古典の感覚すら理解できないのに、なぜヨーロッパ近代の小説は理解できるのか。あるいは古代ギリシャの悲劇は(なんとなくでも)理解できるのか。私の考えでは、ヨーロッパの小説を日本人がなんとなく理解できるのは、そこに普遍的な何かが書かれているからというより、日本人がヨーロッパ化しているからだ。だからこそヨーロッパの文化を取り入れはじめた明治時代以降の文学が、とりわけ日本でもよく読まれているのだ。そしてその葛藤が常に問題になっていたのだ。こんなことはわざわざ言わなくてもよいのかも知れないが。
そして次に「人それぞれ派」だが、そうした読み方をした途端に「文学」だとか「娯楽小説」だとかの境目はとけてなくなる。なぜなら、何に対して「文学」的なるものを読み込むのか、何に大して「娯楽」的なるものを読み込むのかは人それぞれだからだ。そして誰の何という小説がどういう位置づけをされているのか、という視点は完全に不要になる。「同じ日本語で書かれているんだから、エロ小説はエロ小説でしかないし、時代小説は時代小説でしょう」という反論は意味がない。なぜなら議論の前提として「人それぞれ」なのだから、エロ小説を時代小説だと考えるのも個人の自由だ。
「人それぞれ派」の誤謬は、明らかに小説のカテゴリー分類が未だに存在していることから明らかである。故に、「読み方は人それぞれ」という主張は通らない。
以上より、勝手気ままに文学を読むことは可能ではあるが、それが正当化されうる根拠は実はないということがわかった。故に、「好きなように文学を読んでもよい」とは言うことはできない。少なくとも真ではない。
ではなぜ、勝手気ままに文学を読むことが可能なのに、それは正当化され得ないのだろうか。その理由は、自分では自由に作品を読みこなしているように思えても、実は社会的な要素に縛られているからである。社会的な要素とは何か。文化や歴史などの前提、文脈であることは言うまでもない。つまり、勝手気ままに読んでいるようで、勝手気ままに読んでいなかったのである。可能だと思えていただけだったのだ。ゆえに「好きなように文学をよんでもよいわけではない」というのではなく、「好きなように文学を読むのはそもそも不可能」だったのだ。
で、その社会的な要素に目を向けないで、勝手気ままに文学を読むことを推奨すると、人間同士の言葉が通じなくなる。もちろん、共同性の強く残った社会においてはみんながみんな勝手にやっても言葉は通じただろう。それをこそ共同性と言い、共同性の共有できている場所を共同体というからだ。しかし今はそんな時代ではない。まず時代ごとの精神性の変化が激しくなった。80年代のテレビ番組を今見せられると奇異な感じを抱く。当時の若者のファッションを、今の若者がやってたら浮くだろう。そこにもはや特別な解釈の努力が必要になっている。また、同じ日本の国内でも、小さな文化のトライブというかクラスターがいくつも形成されるようになってきた。つまり、みんながみんな同じことを考えているとは限らなくなった。ゆえに、同じ村上春樹の小説を読んでもてんでんばらばらな意見が飛び交うこともありうる。同じ「村上春樹」を読んでいるようでいて、実はそれぞれ違う「村上春樹a」だとか「村上春樹b」を読んでいるということがあり得る。(なぜそういう社会になってしまったのかについては、私などが語るよりももっと良いことが色んな本に書いてある)
こういった事態は何も小説を読む場合に限らず、言葉の一つ一つのニュアンス、意味内容においても起こっているといえるだろう。よく言われる事だが、言葉は生きていて、その意味するところも時代や場所によって違うことがある。異なる文化的トライブ間では同じ言葉が同じ意味内容をささないかもしれないし、そもそもその文化的トライブ内において「勝手気ままに言葉を解釈してもよい」と推奨されていたら、同じ言葉が同じ意味内容をささなければならない、という規範が消滅しているかもしれない。その場合、言葉は勝手気ままな意味のすり替えを(意識的にしろ無意識的にしろ)行われ、議論という議論は成り立たない。故に、現代の社会においては議論という議論はもしかしたら不毛なのかもしれない。もっと言えば、単に時間の無駄なのかもしれない。
そうした時代にあって、私は努力を放棄したわけではなく、知り合いの学生を誘って自主ゼミをはじめたところだ。それはとりもなおさず「用語法の統一」という目標が第一にある。共通の読書の経験を重ねることによって、共通の言葉を獲得する。それによってしか、その前提の上に立ってしか、議論は成り立たない。いくら定義を重ねても、その場で作り出された定義は水のように流れて消え去ってしまう。だから、いわば身体的に、技術的に、言葉を獲得するしかない。私はそう考えている。まあ、ほとんど絶望的な努力なわけであるが。

で、ここからkaza526さんへの返答なのですが、

私はそもそも文芸評論家の読み方というものを信頼していません。文学は好きなように読んだらいい、と言い切ってしまいます。それが管理人さんの言うところの「データベース〜」のような読み方になってしまう人もいるにはいるでしょうが、「体系的な解釈の方法」というものはそういった、それこそ「散発的」な読書経験を積んで自分なりに体得するものであって、評論家の言論に左右されるようなものではないと思います。評論なんてどんどん変わっていますし、昔ながらの文芸評論から小林秀雄的な新しい評論、ソシュールやバルト以降に生まれたテクスト理論に至るまで、それぞれ文学的価値を置いている作品は全く異なるでしょう。評論家の言葉にそこまで信を置いてしまうと、自分で考える力が無くなってしまう気がします。管理人さんだって作品を自分で読んでみて、実際に心を打たれてからでないとその作品を評した評論家には賛同できないでしょう。

批評家の意見が変わるから信用に値しない、というのはどうにも短絡的すぎはしませんか。逆になぜ批評家の意見は変化してはいけないのか。いろんな批評家がいてはいけないのか。そんなむちゃくちゃな話はないと思うのですが。そして自分の頭で考える、というのは思い込みに過ぎないかもしれません。というか、私はほとんどの場合思い込みだと思っています。あと、評論の言葉で心打たれてから小説を読む、ということも往々にしてあるのですが、kaza526さんはそうした読書の形式もあるという認識をお持ちでないようですね。

>読みたい要素のみ作品から読み取っているうちは、ほとんどの人は散発的な読み方しかできないでしょう。

また読めばいいんじゃないでしょうか。


また読みたい、と読者が思った場合に限られますね。

まず、文学的な価値というものは現代人を啓発するか否かにかかっているのではないと思います。小谷野敦という評論家が『カラマーゾフの兄弟』はキリスト教的世界観、しかもロシア正教の世界観を分析した書物で、現代の日本人が内容をつぶさに理解する事なんてあり得ない、というようなことをどこかに書いていました。言いたいことはわからなくもないですが、賛同はできないでしょう。ロシア正教を信じていなくても「大審問官」の価値は伝わるし、読んでみたら「単なる時代精神の反映」になってしまうような文学、例えばゾラの『ルーゴン=マッカール叢書』なんかは、今読んでも登場人物の応酬を見ているだけで面白いでしょう。重要なのは今読んでも面白い、ということで、それならば『死霊』を「エンターテイメント」と評しても良いような気がします。セルバンテスラブレーなんかはエンターテイメントとして小説を書いて、そのエンターテイメント性は今でも我々を笑わせてくれます。今回のフェアに入っていたジェロームの『ボートの三人男』なんかはその典型でしょう。ミステリーやSFも何点かありましたが、こういった文学は欧米ではエンターテイメントとして分けられ、文学(Literature)とは異なるものとして扱われています。読んでも何も得られないもの、ひたすらに笑わせてくるユーモア文学やミステリー、SFに対して、文学的な価値がないということはできないのではないでしょうか(おそらくそこまでは言うつもりもないでしょうが…)。


文学的な価値とは、では何なのですか。それに、別に私は(kaza526さんの紹介する)小谷野敦の意見は、その根拠がハッキリと示されているのであれば、そういう主張もあり得ると思えるのですが。読んで楽しいだけなら「文学」として文学作品を語らなくとも良いはずです。みなエンターテインメントでよい。そしてkaza526さんは今の日本人にも面白いと思えることをもって「エンターテイメント」とおっしゃっていますが、それが幻想にすぎないことはすでに述べました。「昔文学だったもの」を楽しむこともエンターテイメントの一環ですか。読んで楽しいものが欲しいんであれば、他にもたくさんあるわけで、あえて「文学」にカテゴライズされる作品をたくさん選ぶのは、または読むのはなぜですか。本当に疑問です。そこに私はディレッタンティズムを、スノビズムを見出します。

評論家が作り上げる「体系」こそ、衒学趣味そのものでしょう。今回のフェアが過去に編纂されていた文学全集のようなものだったら、それこそ誰も寄り付かないと思います。教養主義的な観点からではなく、実際に今読んでみて面白い文学、それこそ「現代の我々をも啓発してくれる要素を持つ」文学が集められて、若者にも接しやすい言葉で推薦されているのではないでしょうか。


何を衒学趣味だと思うのかについて意見の相違があるようです。互いに嫌いなものを衒学趣味と言っているのでしょうか。ところで一つのものさしの例として、私とkaza526さんのどちらのほうが多くの「文学的」固有名詞を出しているのか、数えてみるというのはいかがでしょう。それでもってどちらが衒学趣味だ、とは必ずしも言えないかもしれませんが。

不愉快に思われたら本当に申し訳ありません。でも、貴方はまだ『死霊』を読んでいないと書いていらっしゃった。貴方は『死霊』の価値をどこから知ったのでしょうか。評論家の言葉でしょうか。それを踏まえた上で『死霊』を読むのなら、それこそ「データベース〜」になってしまうのではありませんか? もっとも若者がエンターテイメントを期待して読むのと、評論家の言葉を下敷きにして読むのとでは歴然たる差があるでしょうが。でも、もし評論家の言葉通りに『死霊』を読んで、それをそのまま踏襲するのでは、読書の幅はもの凄く狭いものになってしまうでしょう。文学の重要性は読まなきゃわかりません。『死霊』を手に取らせたいのなら、動機付けが「エンターテイメント」であれ「評論家の書評」であれ何でも良いでしょう。読めば必ず、推薦された時の言葉以上のものが返ってくるでしょう。もしも貴方が評論家の言葉通りの意味でしか『死霊』を読まなかったら、それこそ『死霊』を読んでいないのと同じではないでしょうか。評論家の言葉を裏付けるために本を読むわけではないでしょう。


「データベース消費」という言葉の意味について齟齬があるようです。私は言うまでもなく東浩紀の『動物化するポストモダン』という本に依拠しました。この本によれば、動物化した人のデータベース消費の特徴の一つは、「他人の欲望を欲望しない」という点です。短絡化させて言えば、他人が何を考えていようと関係なく、自分の欲望にのみ忠実ということです。さて、評論家の意見に耳を傾けるという態度は、他人の考えを無視して自分の欲望にのみ忠実である、という態度と適合的でしょうか。作品そのものを読むことは重要だとおっしゃりたいだけなのであれば、私も全く同じ考えなので、ここに意見の相違はないようです。あと、評論家の言葉を裏付けるために本を読むことも私にはよくあります。kaza526さんにおいては、それがなぜ想定されていないのか理由をお聞かせ願いたいところです。

ちなみに今冊子を見ながら気付いたのですが、「チェスタトンvsスティーブンソン」に「文学とは最高のエンターテイメントである」とあります。これについてはどうお考えですか?


もし「(すべての)文学とは最高のエンターテイメントである」と言いたいのであれば端的に誤りだと考えます。もし「(ある種の)文学とは最高のエンターテイメントである」と言いたいのであれば、そういう文学もあるかもしれないと考えます。何だかkaza526さんの期待している回答が全く返せていない感じがしますが、こんなところでどうでしょうか。