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読書の感想など

新宿紀伊国屋書店の「対決! 共鳴し合う作家たち」というブックフェアーについて

新宿紀伊国屋書店「対決! 共鳴し合う作家たち」というブックフェアーが開催されている。今日はそれについて書こうと思うのだが、まず内容以前の問題として、「対決!」なる文句はどうにかならなかったのかと思う。対決という言葉は、不可避的に勝敗や優劣が決せられる状況を喚起させる。そうしたニュアンスをこめることがお遊びに過ぎないとしても、もし自分の好きな作家が「対決!」の舞台に上げられていたら、あまりよい気持ちはしない。文学、特に古典を愛する人ならば、どの作家の作品がより優れているか、といった議論が聞くに値しないということを知っていると思うのだが。もしそういう議論を誘発させるつもりで「対決!」という言葉を使ったのであれば、まるで(自分たちが日本の文学界とやらを代表していると勘違いしている)芥川賞の選考会と同じで、ほとんど意味のない営みになってしまう。それとも「対決!」という文句を使うことによって、普段古典を読まない層を誘引しようという戦略があるのだろうか。仮にそうだとしても、その試みはおそらく失敗に終わるだろう。なぜならば、今時文学以外の世界においても、全体性や絶対性や普遍性を元にした序列化(すなわち「対決!」によるランキング付け)はある程度断念されているからだ。例えばマンガであれば、手塚治虫や、水木しげるや、つげ義春を読むことが、ナルトや、NANAや、デスノートを読むことよりも崇高だなどと考える人はほぼ絶滅したし、誰が最先端の感性をもつ作家か、などという議論も極めて狭いコミュニティで行われているに過ぎない。時代は明らかに最先端の感性など求めていないように感じられる。「オタクの階級闘争」的な振る舞いは、それ自体が時代性を先取りすることを一つの基準としていることからすれば逆説的だが、時代遅れなのだ。「対決!」という言葉は、ことほどさように空回りしている。だが、ただなんとなく同じジャンル(この場合は所謂文学)が好きな同種の人間同士でたわむれたい、というだけの目論見しかないのであれば、それはそれで結構なことだ。それでセールス的に及第点をとれるのであれば、もはや私は何も言えない。文学を愛する一人の消費者として、ますます書店を、書店員を見限っていくだけだ。もっとも、最悪なのは書店員が「書物復権」的な(こっちは割と深刻に)時代錯誤的スローガンをベタに実行しようとしている場合だ。そういう無根拠な「文学」だとか「哲学」だとかにつきまとっていたのと同種の権威は死んで久しいのだから。
前置きが長くなったが、今回書いてみたいのは、紀伊国屋書店二階で配られていた冊子についてである。本屋で働いている人がどんな本を読んで、どんな推薦文を書くのか見ることができて興味深い。書店員とは、出版社と消費者の間でマージンを得る仲介者的な存在であり、仲介者は往々にして権力を握る。書店員は本屋に並べる本を選ぶことができる。書店員が何らかの理由で仕入れなかった本は、その書店のお客は手に入れることができない、とまでは言わなくとも、少なくとも取り寄せという時間的コストを強いられるだろう。冊子の内容を見てみることにしよう。
中身を読んでみて感じるのは断絶である。どういう断絶か。埴谷雄高の項を見てみれば理解してもらえるものと思う。「ひたすらにコミカルでミステリーなザッツ・エンターテインメント!」という風に文学作品をズラして読みかえる行為は、今に始まったことではない。恐らく80年代はそうした読みかえが最も栄えた時代だろうし、90年代は「文學ト云フ事」というテレビ番組があったし、最近でも文学作品の表紙をアニメ・マンガ系のイラストで飾るという売り出し方は存在している。ここでも問題になるのは、書店員があえてこうした読みかえを行っているのか、それともベタに「エンターテインメント」として読んでしまっているのか、という点だ。前者であれば、そこには現代の作家と埴谷雄高を結びつける視点こそが真に必要なのであって、単にドストエフスキーへと埴谷雄高のルーツを辿って対比することが必要なのではないはずだ。ズラす読み方としては、あまりにも凡庸な作家の選び方だ。ゆえに前者つまりズラしの行為としてのこのフェアーは失敗しているとしか言いようがない。だがそれも、もしも主催者の狙いがズラし行為ではなかったとすれば話は変る。ベタに『死霊』をエンターテインメントとして読んだ場合の話だ。この場合はどうなるかというと、書店員が動物的データベース消費(自分が読みたい要素だけを作品の中から読み取る)を行っているのでなければ、『死霊』がエンターテインメント小説として書かれたとは到底思えないので、誤読以外の何ものでもないし、さすがにそこまで書店員は馬鹿ではないと思う。ゆえに、私は、書店員がデータベース消費を行っているのだと解釈する。つまり、『死霊』からエンターテインメント的要素のみを読み取っているのだと思う。それを裏付けるものは、『死霊Ⅲ』のコメントにあるように思う。「『死霊』が文庫化されたこの出版の歴史に幸あれ!」と書いてある。ちょっとネットで検索してみればわかることだが、埴谷雄高は自身の作品を決して文庫化しようとしなかったらしい。告白すると、私自身『死霊』は文庫でもっている上に未読であるし、埴谷雄高が必ずしも文庫に嫌悪感を抱いていたというわけではないのかもしれないし、そもそもネットの情報が間違っているのかもしれない。しかし、本人が認めなかった文庫で『死霊』を読もうとしている、同じ穴の狢である私からしても、ここまで仮借なく、屈託のない放言には不快感を抱く。少なくとも、わずかばかりの念慮も払っていないという印象を抱く。そこに作家と読者の深い断絶を見る。そして、本当に埴谷雄高をエンターテインメントとして読んでしまうのであれば、他にエンターテインメントとして優秀な小説はいくらでもあるし、それでもあえて変り種の「コミカルでミステリーな」小説だから読むのだ、と言われても読み手の読解力および想像力の貧困をしか私は見ない。とはいえ、読んでいない私が何を言っても詮ない話だ。実際読んでみたら確かに「ひたすらコミカルでミステリーなザッツ・エンターテインメント」と言う他ないと思えるのかも知れないのだから。その場合は謝罪するしかない。とりあえず、近日中に読んでみようと言う気にはなった。
では、当の私は「対決! 共鳴し合う作家たち」的なやり方以外の方法で文学作品を伝えていこうという努力も全て無効だとみなすのかというと、そういうわけではない。『カラマーゾフの兄弟』ブームや(私の周囲の全巻そろえた人間で、最後まで読み通したものは少ない)、『蟹工船』ブームのような形以外で、若い人間を文学へと導くことに成功しうるのは、本田透的な文脈の付与の仕方なのではないかと思う。私が本田透を最も評価するのはこの点で、たとえその文脈が偽の文脈に過ぎなくとも、読者に確乎として一つの枠組みを与えることができる、ということが重要なのだ。このことは、単に年代順に並んだ、あるいは見た目上似ている書物のリストを作成することよりもはるかに意義深い。何故なら、「自分と同じ悩みを抱いている人間が、昔にもいた」と思い込むことによって読書への強い動機付けが得られるからだ。そこにこそ、「文学」と「エンターテインメント」の読まれ方の本質的差異がある。もちろん、読みたい要素だけを作品から読み取っているという点で両者は変らない。だが、明確な原理や答えを求めようとする「文学」的な読み方と、永遠に横滑りしてそのような読書の基準点を得ることができない「エンターテイメント」的な、データベース消費のどちらに発展性が認められうるか。当然、動機付けにおいて強力な「文学」的な読み方においてなのである。そして本田透リラダン手塚治虫を結びつける読み方は、大江健三郎トーマス・マンドストエフスキートルストイを「医師」として読む読み方と同じだし、大塚英志大江健三郎とキャラクター小説を結びつける読み方と同じなのである。私のよく読む宮台真司であれば、「世界」と「社会」という概念をつかってあらゆる物語を横断的に結びつけ分析することだろう。そこには共通して、ある枠組みにおいて、ある原理において、あるいはこう言い換えてもいいだろう、ある問題意識において、時間を超え空間を超え、人間と人間を、作品と作品を架橋するという態度を発見することができる。
 だが、以上の「対決! 〜」フェアーに関する文章は全て書店員にある種の「文学」に対する良心を期待した場合にのみ可能になる。単に売り上げを伸ばすために言葉を弄しているだけなのだとしたら、そんなものに対して真面目に長々と語ってしまった私がばか者なのであるし、配られている冊子も、ネット上の言葉も、チラシ以上のものではないならば、こちらもそれをチラシとして正しく有効活用するのが賢いやり方だろう。私の日記を読んで、何をそんなにムキになっているのだ、と思われた方がもしいたら、とにかく紀伊国屋の二階のブックフェアーを見に行ってください、そして冊子を読んで下さい、とお願いしたい。手放しの賞賛か単なる紹介記事しかネット上で見当たらない事態に、私は不思議な気持ちを抱いてしまう。というか、正直悲しい気持ちになる。読み方によってはいろいろと豊かなものをもたらしてくれる文学作品が、何の問題意識も伝えられず、なんかちょっとオシャレな娯楽小説として、なんかちょっとカッコイイ息抜き小説として、文学オタクのための逃避の場所として、瞬間的に消費されてしまう事態に悲しみを抱く。自分を記号的に着飾るためのツールとしてしか文学はもはや機能しないのでしょうか。こうした嘆きも時代遅れだとわかってはいるのだが。