hkmaroのブログ

読書の感想など

右翼的感性について

今日は古本を六冊買った。カントの『純粋理性批判』が三冊、平泉澄の『物語日本史』が三冊だった。どっちも上中下三冊ある。
『物語日本史』の出だしには、若干右翼的とも取れる表現がある。日本史の本なのだから、そういう表現があっても不思議ではない。むしろ、右翼的な心情にアピールしなくては日本史を語る根源的意味に関わってしまうかもしれない。世界史を語るのには民族的感情はなんら必要ないだろう。むしろ確乎とした教養を修めるにあたって今現在の世の中に必要とされている歴史的知識は世界史の知識なのであって、日本史はその中の数ページにのみ位置づけられるに過ぎないし、事実地歴三科目のうち必修なのは世界史だけだ。それはそれで正しい位置づけであり、正しい歴史認識なのである。この東洋の島国がどれだけ世界の歴史を動かせたか。確かに日本は戦後は経済的な大発展を遂げてそこそこは歴史を動かしたかもしれないし、戦前だったら驚異的なスピードで近代化を遂げて列強の仲間入りをしたかもしれない。マンガの影響力をもってその文化も広く知られるところとなったかもしれない。しかし、世界の三大帝国といえば依然北米とヨーロッパと中国なのであり、日本は北米帝国の傘下にいると普通考えられるし、世界史をさかのぼった場合はヨーロッパ(ローマ帝国)と中国の二つの帝国が重要だし、事実高校の世界史はこの二大帝国のその後を延々と追っていけばおよそ八十点は取れる仕組みになっている。なぜなら、ヨーロッパと中国はその他のありとあらゆる地域に影響を与え続けてきたからだ。大学入試となるといよいよ設問はヨーロッパに関するものに絞られてくるのかもしれない。何故なら、大学に入って学ぶ学問の九割はその起源をヨーロッパに持つからだ。ヨーロッパの歴史を一切知らない者が、法学や政治学や経済学や、工学や医学や物理学を学ぶというのは、なにやら迂遠な道のりであるように感じられる。
考えてみれば、「日本史」なる科目は不思議な科目だ。日本の歴史とは言うものの、じゃあ日本とはどこからどこまでのことをさすのであろうか。私は高校時代に日本史を選択したことがないが、琉球の歴史はやるのだろうか。アイヌの歴史はどうだろうか。台湾の山奥にいるという、今でも天皇陛下を崇拝し、日本語を喋り、日本のテレビを見ている少数の台湾人については触れられるのだろうか(私も聞きかじったのみで、詳しい話は知らないのだが……)。沖縄の歴史は日本の歴史か。本土の人間が支配してから以後の歴史しか記述されないのだろうか。本土の人間が支配する以前のアイヌの歴史は世界史にまわすのだろうか。実際、琉球の歴史は世界史の教科書に少し出てくるのではあるが。
「日本史」という観念は、そもそも日本という国家を前提にしなければ成り立たないのではないだろうか。そして、言うまでもなくその国家という枠組みは人為的なものなのである。最近は右翼であっても、日本という民族、日本という国家が幻想に過ぎないということをわかっているのだという。そんな、なんだかあやふやな「日本史」なる怪しい知識を、それでも学ぼうとするにはどんな心構えが必要なのだろうか。
今読んでいる、三島由紀夫の『若きサムライのために』にはこの問いに対する明快な答えが書かれているように思う。

福田 もちろん、役人も一応それは考へるわけだ。でも、あの人たちが日本文化を守らうといふのは、せいぜい国立劇場をつくるといふことくらゐなんだ。それで、歌舞伎とか、伝統芸術を保存しようとする。
 ところが一方、学校教育では、歌舞伎を理解できず、関心も持てないやうな教育をしてゐる。つまり古典殺しをやってゐて、その殺したやつを昆虫標本の中に生かしたまゝ動かしつゞけようとするのではなくて、博物館のミイラとして保存すること、それが文化に関心を有する政治家、役人の文化政策といふものです。
三島 だから、「文化を守る」といふことは、「おれを守る」といふことだよ。蘄田さんもさう思つてゐるだらう。
福田 さう、おれが文化だもの。
三島 やっぱりそれしかないんだ。
福田 だけどそれがね、いまの教育ぢゃ、文化を守るといふことはおれを守るといふことにつながつてゐないでせう。

文化を守るということがおれを守ることだと感得されるとき、真に文化の教育つまり伝承がなされているとしている。同じようなことは日本史についてもいえるような気がする。日本史を知ることが、おれの起源を知ることだと感じられるとき、初めて日本史は学ぶに値する学問となるのじゃないか。そして福田恒存の批判は「日本史」においても当てはまるのではないだろうか。現在の学校教育の中では、日本史を学ぶことが、おれの起源を学ぶことになっているか。良いところも悪いところも含めて、というか、良いとか悪いとか関係なく、おれの起源が教科書の中に書かれていると感じることができるか。もちろん、良いところが沢山書いてあったほうが、おれの起源としてその「日本史」をより認めたくなるだろう。もしかしたらそれは、「新しい歴史教科書」的な教科書を生み出すかもしれない。だが、悪いことが沢山書いてあって、日本の歴史はおれの歴史じゃない、と考えるような日本史を放棄した人ばかりになってしまうのと、日本人は侵略も虐殺も一度もしたことがないと主張はするが、日本の歴史はおれの歴史だと一応考えられる人が増えるのと、どっちがいいのだろうか。それとも沖縄県民は琉球沖縄の歴史だけ、熊本県民は熊本の歴史だけ、大阪府民は大阪の歴史だけ……という風に、郷土史さえ学べば日本史は必要ないのだろうか。国家解体の危機とは、実はこういうところにあって、それがあとでじわじわと効いてくるのかもしれない。新聞もテレビも人気がなくなっているという時代の流れもあり、(マスメディアの強力な支えを失いつつある)国家を肯定するのか否定するのか分かれ道にきているように感じられる。福田恒存のように、日本文化を一つの確かな概念として使うことができた時代は、まだ日本についての議論が簡単な時代だったのかも知れない。今の時代には、日本について何か語ろうという人のほうが珍しいかもしれない。日本日本といっても、あまりにも漠然としているから。