hkmaroのブログ

読書の感想など

宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を読んだ

ゼロ年代の想像力』をようやく読むことができたが、いろいろ言いたいことはあるのだが、特に重要な点に限って書き出したいと思う。
まず評価すべき点を挙げようと思う。それは、サバイブとかバトロワとか言い出して、現実をゲーム的に生きようという態度を概念として抽出した点だ。決断主義だとか再帰的○○だとか、社会科学系の用語を使おうとすると馬鹿さが露呈してしまっているのだが、「所詮この世は弱肉強食」的な価値観をサブカル界隈に見出したのは褒めてもいいんじゃないかととりあえず思う。あとは、学園ブームはなぜ起こったのかとかについての考察も、宮台にしれっとパクられていて面白かった。
次に評価すべきでない点なのであるが、これについては数えだしたらキリがないほどあげられそうなのだが(何しろ私はエヴァにはまりAIRに泣き滝本竜彦に共感した、レイプ・ファンタジーを地で行く人間なので)、細かい論点ではなく全体を通して批判すべき点を挙げれば、それは宇野さんが言葉遊びの人であるという点だ。例えば彼は、ポストモダンになって大きな物語が凋落したら、近代においては大きな物語として機能していた国民国家的価値観が衰退し、そうすると国民国家に強力に支えられていたいわゆる国語も衰退し、そうすると文体を重視する純文学的物語は流行らなくなる、みたいなことを言う。この論理展開を一読して私は、「ハァ?」とため息をつかざるを得なかった。「大きな物語の凋落」という実体を信じられる宇野さんに脱帽ものだ。大きな物語は凋落するものだ、と思える程度には彼にとって大きな物語の存在感が強かったということを証しているように思われる。私には、後期近代だとかポストモダンだとかになって「大きな物語」なるものが凋落したという感覚すら遠い昔の出来事のように思われる。できることなら「大きな物語」とやらを一目みてみたいものだ。それの凋落するさまもあわせて見られたらと、東浩紀大塚英志の本を読むたびに思う。
真面目なはなし、「大きな物語」という概念は、宇野さんの「サバイブ」だとか「決断主義」だとかの概念と同じように、目に見えるもののことを言っているわけではないはずだ。それは、かなり抽象度の高い話であって、というかあまりに抽象度が高すぎて具体的な「大きな物語」や、「サバイブ」や、「決断主義」は、手にとってためつすがめつすることのできるものではない。しかし、だからこそ概念の有効性はあるわけだ。しかし、その抽象度の非常に高い概念を、「純文学が流行らなくなった」という目に見える事態へと、概念同士のつながりだけで導かれてしまうと、読んでる側としては唖然としてしまう。「え、国語が衰退して文体や表現が軽視されるようになった、ということを示すためにはまず国語教育の過去と現状を調べることからはじめるべきなのではないのですか?」という素朴な疑問を抱く。つまり、そこに飛躍があるように思える。
そして、全編がこの調子なので、せっかく良いアイデアは沢山盛り込まれているのに、読み通した後の感想は、悲しいものになってしまう。何も裏づけがないからだ。この本には主張はふんだんに書かれているが、その論拠は心もとない。それは「決断主義的」ともいえるほどに無根拠だ。ある程度の確実な裏づけも一切ない。皆無だ。
あと気になったのは、宇野さんの批評の文体は、大塚英志の悪い影響のもとにあるということだ。大塚英志の文章は、本人は知っているのかどうかわからないが、極めて精神分析的だ。しかもオカルトっぽいほうの精神分析だ。何かというと「このアイテムは○○の象徴である」とか言い出して、「それゆえに彼は父になれず……」とか、「母を否定する近代がどうのこうの……」とか言い出す。私は大塚英志の言及する小説の登場人物で、父でも母でもないような者に対して、彼が「父」だの「母」だのと言う文章にしばしば出くわす。そういう読解はもうそろそろやめにしたほうがいいと思うんだ。何も生産性がない。私は、歴史的文脈重視で批評する宮台的な読み方のほうが、作家の無意識も、作品の本質も、読者の無意識も、明らかにできるような気がするのだが。何故なら、精神分析的な読解は、作家の無意識を浮き彫りにしているように見えて、本当に浮き彫りになっているのは批評家自身の無意識でしかないからだ。なんてことのないアイテムをペニスの象徴だと解釈するのも批評家の自由なのだからなあ。