hkmaroのブログ

読書の感想など

人生は生きるに値するか

カミュの名言だ。人生は生きるに値するか。それこそが問題だ。いや、それだけしか問題ではないのだ。
私は数日前、自分が自分でなくなるような感覚を覚えた。朝起きて仕事へ向かう自分を外からみているような感覚だ。働く機械である自分を、いつものように古本屋で買った本などを読んで政治思想について考えている自分が、外側から眺めているのだ。自分が背広を着て働いているとは思えないのだ。これが自分だとは思えないのだ。だから私のプロフィール欄には今も無職ニートと自己紹介してある。無職ニートである自分こそ、真の自分だという気持ちが強くするからだ。仕事をしている自分は自分ではない。何者でもない自分こそ真の自分なのだ。だが、その場合何者でもないのだから自分を定義できないという難問も存在する。本当の私などはもともと存在しないと考えていた私であったが、あの朝の体験を経てからは、本当の私の存在を信じることにした。つまり、私は自由主義者になったのだ。
シーシュポスのような終わらない苦役を続けるのが人間なのだろうか。カミュの言葉は癒しの言葉にもなるし、単に絶望を表現する言葉にもなる。つまり、「人生は生きるに値しないのだ」と言っているようにも聞こえるのである。もちろん、実際にはカミュはそれでも人生は生きるに値するのだと言い張った。なぜなら、人生そんなもんだからだ。苦しいのが人生なのだ。その苦しさの中でたまさか起こる楽しいことを拾うのが、人生の楽しみなのだろうか。全き絶望のなかにいたかつての私には、カミュの言葉は地獄から私を救う言葉となった。しかし、地獄から外の世界に出てみると、そこは地獄よりもつらい場所だった。
直接的には同じものを意味しないが、『ショーシャンクの空に』における監獄や(シャバでは生きていけない)、『拝啓天皇陛下様』における軍隊(軍隊は天国である)と似ているように思う。ひきこもりの時間はもちろんつらかったから、体重は今より二十キロ少なかったし、顔は青ざめていた。エロゲーも死ぬほどやった。学校には全くいかなかった。テストすら受けなかった。しかし、生きることが不毛であるとは思わなかった。今の私には、生きることが不毛であるように思えてしまう。ただ生きるために生きる人生は、生きるに値するのか。特に生きるに値するともしないとも言えない。当然のことだ。だが人間は、ただ生きる以上のことを人生に求めるのだ。だから酒を飲むし煙草を吸うしギャンブルをするし芸術に興味を持つし本を書いたり読んだりするし必要以上に働いたりする。人生の楽しい部分は全てそのような無駄に思える部分なのだ。つまり、生きるため以上の過剰な部分だ。それがなければ生きていけないのが人間なのだ。そうであるならば、ただ生きるだけの人生は生きるに値しない。あまりにも不毛だ。