hkmaroのブログ

読書の感想など

社会をよりよくするためには

今日も純粋に愚痴をはくことにしたい。
この世の中には楽しく生きている人間とそうでない人間の二種類しかいない。このわけ方はいろいろな題材において可能であって、例えばこの世には漫画を読む人間とそうでない人間の二種類しかいない、というような言い方も可能だ。
楽しく生きている人間とはどういう人間か。前回の内容ともかぶってくるのだが、やはり仕事を楽しくやっている人間だ。仕事でなくともよい。別に生きている時間の全部が楽しい人間であれば彼は楽しく生きている人間だと思う。仕事をしているかどうかは問題ではない。しかし、現実問題として、私のように(好き勝手にやって金を稼ぐ)能力がないと社会的に認定されてしまう人間は、奴隷のようにして安月給でこき使われ、生活のほとんどの時間を仕事にささげつつでなくては生きていくことすらできない。となると、生活のほとんどの時間をしめてしまう仕事の時間を楽しく過ごせるかどうかが問題になる。
では仕事を楽しくやってる人間はどんなひとか。考えられるのは、仕事の内容つまり職種が、自分の理想自己の本質と合致しているような人である。たとえば、有名なバンドにあこがれてミュージシャンになりたかった人が、実際に大ヒットバンドでデビューとまではいかなくとも、スタジオミュージシャンにでもなれば、自分にもともと興味関心のない肉体労働だとかエクセルの打ち込みなどをやらされるよりも、仕事の時間をずっと楽しく過ごせるだろう。こういう人は、簡単に言えばアイデンティティー=職業という図式の成り立つ人である。
その次に考えられるのは、仕事の内容が自分のアイデンティティーと関係なくとも楽しくやれる人だ。その場合、彼/彼女は非常に強い上昇志向を持ち、さらに仕事での成績もよいという条件がつく。そのへんに仕事の「やりがい」みたいなものを感じ取るだろう。タイムカードの時間外にも仕事のことを考え、家に仕事を持ち帰り、ガンガン働く、それによって昇進し、給料もあがる、という循環が存在すれば、彼/彼女にとって仕事がアイデンティティーとは関係なくとも楽しくなるだろう。ここには受験勉強の楽しさ、中毒性と似た構図があるし、そのように超長時間仕事と付き合っていれば、不可避的にアイデンティティー=職業という構図が生み出される。つまり、結果的にアイデンティティーと職業が同値なのである。
そして第三のケースは、労働に対して無私の情熱をささげられる人である。この場合、自分のやっている仕事が公益に資するものだという無根拠の確信が必要だ。自分の仕事が公益に資するなどとは今の時代簡単に言うことはできない。それどころか、公益に資する仕事など人類の歴史上存在したのかどうかもあいまいだ。つまり、公益に資する仕事は、そう信じるところにしか生まれないし、逆に言えば自分が公益に資すると考えればその仕事は公益に資する仕事になるのだ。これについては条件としてその人に宗教にハマりやすいような性質が必要で、この性質がない人には例えば老人介助のような仕事は楽しくない仕事と認識されるであろう。無論、営利目的の企業に勤めていても、その企業が「社会貢献」をしていると猛烈に信じ込んでいる社員は、無私の情熱を仕事に注ぐことができるであろう。こういう人は、前の二例と違いアイデンティティーそのものが問題にならない場合もある。無私だからだ。逆に、無私であるということがアイデンティティーと関わっている場合もある。後者の場合は真の意味で無私ではないが、「無私の私」という外観を保つことになるので外から見れば結果的に両者は同じである。
私が考え付く仕事の楽しい人は、以上の三つだ。自由を愛する人にとって第三のケースは論外だ。何故なら自由を愛する人間は、誰の自由を愛するのかというと、自分の自由を愛するからだ。ならば、自由への愛は自己の主体性の確立が前提にある。ならば、無私の精神など自由を愛する人にはありえない。すると、自由を愛する人は第一と第二のケースのどちらかでなければならない。多くの場合、自由を愛する人はどちらのケースでもない。彼らはたいてい第一のケースになりたがるが、それになれる人はほんの一握りの恵まれた人たちだけだ。そうすると、自由を愛する人のほとんどは人生が楽しくない人ということになる。生まれつき金が余るほどにあるというのなら話は別だが、そういう人はなかなかいない。やっぱり今の日本はまだ、働かざるもの食うべからずなのだ。
まとめると、楽しく生きられる人間は、自由を愛さない人間か、様々な条件に恵まれた例外的な人間かしかいない。このうち、自由を愛さない人間は特に第二のケースの人間に限られる。だが、以上に見てきたことから察するに、生きることが楽しくなるには仕事とアイデンティティーの関係が重要だと考えられる。この二つが近づけば楽しく生きることができる。あるいは、そもそも仕事の必要性がなくなれば楽しく生きることができる。仕事以外の場所でアイデンティティーを作るのが非現実的な提案だということは、以前にも述べた。このような学者脳的な能天気極まりない提案は、まともな社会人(会社人?)なら一蹴する。
我々の社会にとって、人間が幸せになるために重要なことは次の一点が含まれるといえるだろう。つまり、どんなにクソな仕事でも楽しくやれるような仕組みが備えられること。これさえ達成されれば社会はより完全性を増すだろう。仕事は人間が生きるための営みである。人間の営みの総体に近いのだ(現在もそうであるかどうかはわからない、という疑問を抱く立場からは、仕事をなくそうという思想がうまれるだろう)。ならば、教育も政治も法律も経済も科学も全て、世の中の仕事一般をより楽しくできるような知識として一定の成果を提供しなければならない。学問は役に立つかどうかではないのだ、という意見もあるだろうが、学問が健全に回っていくためには、何らかの社会へのプレゼンテーションはやはり必要だ。何故なら学者は好きなことだけやって暮らしている人間の典型例だからだ。それが一般市民から認められるには、当然正当化のプロセスが必要になる。好きなことだけやるには、元手が必要だ。第一のケースの人々は、自分の好きなことが職業として金になることによって楽しく生きているのだ。それこそが第一のケースの人における、好きなことの正当性の根拠になっている。