hkmaroのブログ

読書の感想など

仕事や学校以外の場所とは

仕事が楽しい人間や学校が楽しい人間ばかりがいるのではない。むしろ多くの人間が仕事や学校を嫌な場所として捉えているのではないかと思う。そういうときどうすればよいのかというと、よく提案されるのが職場や学校以外の場所に帰属する場所を見つけろ、というものである。しかしそのことは現代にあっては困難になっている。職場や学校以外の場所として、仕事や勉強でうまくいかない人の受け皿として機能していた、地域を基本単位として存在していた様々な帰属先が、地域性の弱体化によって破壊され続けているからだ。破壊という言い方は適切ではないかもしれない。鈴木謙介が『カーニヴァル化する社会』で指摘したとおり、それは瞬間的になっているのかもしれない。持続性を持たないから、本当にオルタナティブな帰属先として機能しなくなっているのかもしれない。どっちにしろ、仕事的学校的な価値観が生活のほぼ全てを覆うようになったこと、加えてそれ以外の帰属先の機能の弱体化が、現代の不安の原因の一つにあると思う。
仕事をしている時間、学校にいる時間、これらは一日の三分の一(八時間)を超えてしまう。一週間のうち五日間は最低働いたり学校にいたりするとして、人間の時間の最低二十一分の五は仕事や勉強に取られている。さらにそれらのうち三分の一は休息にあてるとして、活動できる時間の最低十四分の五が仕事や勉強にとられてしまう。仕事や勉強以外の活動できる時間が、全て自分のためにあるわけでもない。他人や家族との付き合いのために使わなければならない。これを残った十四分の九の時間のうち半分と仮に考えると、真に自分のために使える時間は二十八分の九だ。大雑把に言って、やはり三分の一しか、自分のために使える時間はない。そのほかの三分の一は他人や家族のため。「仕事・勉強」「人のため」「自分のため」という三つに時間の使い方を分類すると、そのうち最低でも十四分の五を占める「仕事・勉強」が、やはり生活の中心にならざるをえない。現代の常識から言えば、自分のことを「仕事・勉強」の人間として捉えるのが普通なのである。人付き合いを削って自分の時間を増やそうとすると、コミュニケーション不足からくる苦しみが増すように思う。それでなくとも現代の人間は共同性に飢えているのだ。理由は、第一段落で述べたとおり。
だが、「人のため」でも「自分のため」でもあり、しかも「仕事・勉強」と同じくらいに社会的に意義を持つと思われる時間の使い方あるいは帰属先が存在しているように思う。それは、政治集団(に参加すること)だ。政治活動はまずもって「自分のため」であり、その手段として連帯しなければならないから「人のため」に時間を使うし、諸活動は社会をよりよくすることを目標にしているから「仕事・勉強」と同じくらいに意義深いし義務も生まれる。
「仕事・勉強」がもし生きる糧を得るための手段にしか過ぎないのであれば、人は生きている時間の最も大きな部分を使う仕事や勉強によって自分の人生が消えていくのに耐えられるだろうか。人によっては仕事や勉強をしている時間が、人生のうち活動できる(若い)時間の過半数を超えてしまうかもしれない。やはり、「仕事・勉強」は、動機付けにおいて人の自己実現やアイデンティティと結びつくのが理想的なのだ。少なくとも日本ではそれ以外に上手くいくわけがない。仕事や勉強が、あくまでも手段に過ぎないという文化を持つのであれば、それらからいくらでも離脱することができるし、必要なときにいつでも参入しやすいような社会が出来上がっているかもしれない。しかし、少なくとも日本はそうではない。それは民族のエートスだろう。ならば、制度だけ成果主義を導入して意味を成さなかったのは必定だったのだ。
やはり、私は、どう考えても日本で成果主義を目指したら、本田透的、『ウェブ進化論』的、渡辺浩弐的な「総表現者社会」になるしかないように思う。だがその「総表現者社会」はグローバル資本主義を前提にしている。簡単に言えば、経済的に弱い国の人々が、表現者の生活必需品を、命を破壊されながら工場で生産していることを自明の前提としなければ回っていかないのではないだろうか。これは短絡的に過ぎる考え方だろうか。グローバル資本主義は、何らの搾取を生み出さずに成功するのだろうか。それとも、「総表現者社会」はグローバル資本主義と何の関係もなく成立しうるのだろうか。