hkmaroのブログ

読書の感想など

上手く生きるには

世の中嫌なことだらけだ。自分自身で過去に選択したものでも、すぐに嫌なものに変化してしまう。嫌なことはどこにあるかわからない。よかれと思ってしたことでもすぐさま嫌なものに変化してしまう。要するに、リスクを減らすことが永遠に不可能だ。心の問題だからだ。心のリスクを減らそうとすると、脳みそをいじったりするしかなくなる。逆に言えば脳みそをいじりさえすれば、嫌なことなしで生きていくこともできよう。
でもその方法は、人間性の観点や、社会的な受け入れ態勢から言ってもまだ不可能だし、将来的にも完全に可能になるかどうかはわからない。となれば、別の方法が必要になってくる。
別の方法といっても、人間は昔からこの嫌なことに対して戦ってきたのではないかと思う。嫌なことは不可避的に存在する。ならば、嫌なことを相殺するような場を作ればいいのだ。それが家であり再生産の場所ということになるのじゃないだろうか。だが、嫌なことが起きるリスクを減らすことはできないのだから、結局よかれと思って作ってみた再生産の場所であっても嫌なことを生み出してしまうかもしれない。特に近年は家の力が弱まってきている。じゃあどうすればよいのか。
祭りとか宴会とか暴れることとか予想外の出来事とか、そういう身体的な体験は、経験の好/嫌という分類自体をなくすことができるように思う。ようするにリセットすることができる。自分探しの旅行なんかもそういうものとして機能するんじゃないかと思う。実は楽しいことだけしようというエンターテイメント体験は、それが身体的な強烈さを持っていない限り、好いものを味わったという体験にしか過ぎず、リセットの機能を持ち得ないような気がする。好いものは嫌なものに容易に転化しうる。そうであるならば、好いものすらも一旦消してしまわなければならない。
だが、身体的体験が上手く生きていくための方法として有効だとしても、その身体的体験から疎外された人々はどうすればよいだろうか。自分でそれを作り出していくしかないのか。自分で作り出す身体的体験とは何か。それさえ分かれば上手く生きていけるんじゃないだろうか。エンターテイメント体験でない何か。いわば修行みたいなものだ。自分でやるんだから。断食なんかはどうだろう。般若心経を一日中唱え続けてもいいかもしれない。要するに、宗教的な修行の方法にヒントがあるということが言えそうだ。それが本当に有効だったとして。