hkmaroのブログ

読書の感想など

ドンキホーテ読み終わった

ドンキホーテを読み終わった。
色々と考えさせられることはあったが、特に考えたのは次のようなことであった。ドンキホーテは物語の中に生きているのであるが、そのドンキホーテ自身が、人間は誰しも物語の中に生きている、という認識を持っているということ。ドンキホーテは自らのロマンの対象について、その入れ替え可能性を認識していた可能性があるのだ。また、後編では前編がすでに出回っているという設定であり、前編を読んだ人々が、ドンキホーテの思い込みに合わせて振舞うことによって、ドンキホーテが自分が偏向した目をしていることに気付かないような構造になっている。そして、思い込み合わせて演技をする人間たちをも、作者は、同じくらい気が狂っていると評しているのである。そして、最終的にドンキホーテは自らのロマンの対象が不可能なものだということに気付く。ここから、ありえる二つの異なる認識が導かれるように思う。
一つ目は、人間は全て物語=ロマンを持っていて、それは不可能である、という認識。二つ目は、物語とロマンは異なっていて、ロマンを持つ人間だけが不可能性にぶつかる、という認識だ。前者の場合、あらゆる人間は物語を実現することは不可能になる。物語とは何か。行為規範であるとかロールモデルと翻訳することができるように思う。すなわち、あらゆる行為規範は不完全である。転向を免れ得ない。二つ目の立場にたてば、物語とロマンの違いが問題になるが、ロマンとは不可能性があらかじめ分かっているような帰依の対象を求めることではないだろうか。ドンキホーテは最初から騎士道物語の虚構性を知っていた可能性がある。それに対して単なる行為規範は不可能性を前提にしなくともよい。
どちらの立場に立つのが正しいのだろうか。三つ目の認識もある。それは、物語とロマンは違うけれども、やはりどちらも必ず不可能だという認識だ。私はこの立場に立ちたいと思う。そしてロマンは超越的なものを求める心性であり、それは超越的であるがゆえに不可能なのだ。スゴイものを求めるからこそ、それが嘘だと始めから分かってしまっている。
つまり、私が考えることは、常にいつも間違っているのだ。上に書いたことすらも。