hkmaroのブログ

読書の感想など

今日は本買ってない

本を買ってないと不安になる、嫌なことばかり考える。何もかも上手くいかないような気になってくる。何もかも上手くいかなかったらどうなるだろうか。塗炭の苦しみというやつにまみれてしまったら生活はどうなるか。人から罵倒され続ける人生になってしまったら、自分の主体性は一体保持しうるだろうか。おそらくなくなるだろう。人が人であり続けるために必要なものとは一体何か。人を人でなくするものとは一体何か。正解という信仰と、苦しみだろう。正解というものがあらゆる選択に存在しているという信仰は、人を人でなくする。最適な解を求めることが至上命題であれば、主体性はなくなる。また、主体性には精神の余裕が必要だ。人の脱人間化を促す状況にあってなお人間であり続けるためにはどうすればよいのか。私にとっては本を新しく手に入れることだ。読むことも人間的ではあるが、本を持っていることによって読むことは可能になるということを考えれば、本を手に入れることは実は本を読むよりもより広い範囲のことを意味している。だが人によって主体性の固持のための方法は異なるだろう。快楽的読書をしかしない人にとっては、読書は人間的行為ではなかろう。そうした人にとって、体を鍛えることこそが人間的であるかもしれない。人間性についての議論は、存在についての議論ににている。私(たち)は、人間性というものがどういうことを意味しているのか知らずに、人間的とか、動物的とか議論している。人間性はそれぞれの人間にそれなりの形式でありうるだろう。決して自然と対立することのみが人間的なのではない。しかし、自然との調和を求めるという態度そのものが、自然的でないというならば、やはりそれは自然と対立する人間的な態度ではあろう。そうであるならば、人間性とは何かを議論する場合、何が人間的かという問いの立て方をするのではなく、何が人間論的かという問いの立て方をすべきだ。ヒューマニズム人文主義が探求している人間像とは、そうした人間論的な人間の姿である。人間論的な人間とはどのような人間か。主体的な人間である。
そこで再び議論は振り出しに戻る。人間の人間性は超越論的で、存在論的で、人間論的だ。では人間の動物性は、超越的で、存在的で、人間的だろうか。私にとっては今日明日の生活と直結した問題だ。苦しみの中で生き抜くには明らかに人間論的であらねばならぬ。めくらめっぽうに人間的であろうとするのでは、本当の悟りは訪れない。また別の苦しみに出会い、人間的でなくなってしまうだろう。では、人間論的であるにはどうすればよいのか。本を手に入れて読み続けることは、本当に人間論的な営為なのかどうか。それどころか、ただの動物的行為なのではないと言い切れるか。