hkmaroのブログ

読書の感想など

死んだように眠りたい

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いい睡眠がとれていない気がする。この数年、泥のように眠ると言うか死んだように眠るというか、そういうドカンととれる睡眠というものをしたことがない。睡眠が単調になっている。

学生の頃は死んだように寝るということが度々あった。朝まで飲んだり、学園祭や合宿で異常に疲れたりということがあったからだ。しかし今はそのようなことがない。時間が平板になっている。この平板さは苦痛だ。

こんな風に時間が平板だということは、俺の人生はもう終わっているということなのかもしれないと思う。人間の人生は実は20代までであり、30代から先の人生はおまけ程度のものでしかない。おまけというより、無い方が良いものだから蛇足と言った方が近いだろう。

蛇足の人生だから、せめてよい暇つぶしを見つけて死んでいきたいものだ。時間を消すということはそういうことだろう。自殺する気は起きないが、その理由は自分でもわからない。自殺したくなっていてもおかしくないのに図々しいもんだと思う。

 

NEW GAME! の二期が始まったのだろうか。Instagramツイッターには画像が貼られ話題にもなっている。一期をリアルタイムでは観ていなかったので、今はdアニメで一期から観ている。

感想はというと、端的に癒される。良いか悪いかで言えば、とても良い。

こういうタイプのアニメがアニメのメインストリームの位置を度々占めるようになってもう10年くらい経つと思う。らき☆すたあたりから空気系日常アニメというラベルが用いられ始め、けいおんや日常がそれに続いたと記憶している。つい最近ではけものフレンズが当たったが、あの売れようは流石に例外的にせよ中身の大部分は空気系に近いものがあった。

昔の自分はこういうアニメを面白いとは思わなかった。はっきり言ってバカにしていた。視聴するにあたってなんの努力も必要ないからだ。ブラック企業で精神が擦り切れるまで働いたプログラマーやSEたちが空っぽの頭で眺めるアニメだと思っていた。

そして今自分がプログラマーとなった後で改めて思うが、その先入観は間違っていない。プログラマーは日中もっぱら脳みそを使っている。家に帰ってアニメを観ている時にまで脳のリソースを使いたくないと無意識に感じているはずだ。少なくとも俺はそう感じている。放熱中の頭で缶チューハイなどを飲みながら観ることができるアニメとはガンダムとかエヴァとか攻殻機動隊みたいに難しいやつではなくて、また、SAOやらお兄様やらなろう系やらの俺TUEEアニメでもなくて、頭身の低い美少女たちがソフト・エロな日常を繰り広げる空気系アニメなのである。

このような空気系アニメは糖分である。難しい系のアニメが野菜であり、俺TUEEアニメが油物であるとするなら、空気系アニメは糖分だ。疲れた脳は糖分を求める。ただ単純にそういう理由で、脳ドカタ達は空気系アニメを求めている。

ちなみにタンパク質は何系のアニメがそれにあたるだろうか。数分考えてみたが、俺のような男のオタクにとってはおそらくタンパク質にあたるものは純然たる美少女が登場するアニメであろう。昨今のアニメには良質なタンパク質が少ない。いささか古いがらんま1/2のシャンプーのようなキャラクターこそタンパク源である。なぜそれをタンパク質と言うのか。観るものの妄想をかき立てずにはおらず、妄想力が鍛えられるからである。妄想力はオタクにとっての筋肉なのだ。

アニメは人間の心を救う

今年の春からアニメをまた観るようになった。

どうしても生きる気力がわかなくなり、何もやる気が起きない日々が続いていた。あんなに好きだった音楽はほとんど聞かなくなったし曲も書かなくなった。まるで興味がわかなくなった。ギターはたまに弾くし歌もたまに歌うのだが、以前ほど自分の軸に音楽があるとは思えなくなっている。

小説も全く読まなくなった。小説を書いている人たちは自分と違って小説を書きたいという欲望に恵まれている人たちなのだと思えた。欲望は生きる上での希望である。欲望のない人間は死んでいるも同然だし、死んでいるどころか排泄物は出し続けるのだから製糞機以上のものではない。小説を書く人、読む人は、それだけで幸福な人たちのように見えて仕方がなかった。

まして映画は興味の対象にならなかった。マンガも読まない。一体何が楽しくて生きているのかまるでわからない。

欲望は人間の生命の泉だ。欲望がなくなればどんな景色も色という色を失ってしまう。私にはあらゆるものの意味がわからなくなっていた。道行く人達の生きている意義、その人達が欲望のもとに追い求めるものの存在する意義がまったく理解できなくなっていた。

ここ数年はそういう日々が続いている。仕事が辛いのでもない。人間関係が辛いのでもない。ただただ時間が重りのように感じられるのである。これを書いている今だってそうだ。時間は欲望によって意味を付与される。意味とは強度だ。時間の密度は強度によって感じられるのだろうが、それは同時に強度によって意味づけられるだろう。意味と強度は対義語ではない。私の時間には強度という強度が欠けていた。時間から意味という意味が根こそぎ剥がれ落ちてしまっている。

この何も無い時間を耐えるのが苦痛で苦痛で仕方がなく、時間を消し飛ばす方法を考え続けていた。酒を飲んだ。ゲーム機を買った。とにかく早く寝ようとした。過食をした。むやみやたらと出かけようとした。全て無駄であった。確かにそれで一時は時間を消すことができる。しかし、そのしわ寄せは必ずやってきた。つまり、酒を飲んでいてもゲームをやっていても寝ようとしても食っていてもどこに出かけていても、時間はいつも重いということがわかってくるのだ。鉄塊のようにひたすら重く色あせた時間が厳然とあって、私から離れようとすることはなかった。

だがついに私は時間を消す方法の一環としてアニメを観た。Amazonビデオとdアニメとバンダイチャンネルを契約した。最初はコードギアスを観た。一気に全ての話数を観た。観ている間、私の時間は確かに色を取り戻した。文字通りアニメの画面が色に溢れていることは無縁ではないだろうし、声優の声色が色に溢れていることも関係しているだろう。だがアニメを視聴するという体験はそれらを全て含んだ上で突然やってくることだ。それは向こうからやってくる。私が面白いアニメを観ようと思ってコードギアスを観たのではないことは確かである。私は時間をどうにかしてやり過ごしたくて、せいぜい自分を騙すための麻薬としてのアニメを求めていたのである。しかし作品はその役目を見事に果たしたばかりではなくそれ以上の効能をもたらした。コードギアスを観ている間の日々には、色があったと思うし時間は軽かった。

その時から私はほとんど10年ぶりくらいに「今期のアニメ」を毎週観るようになった。観るようになったと言っても、全ての作品を観ているわけではもちろんない。ただ、決まった作品を週に一度ずつ観るということによりこの重くて無味無臭で耐え難い時間がある程度は耐えやすくなったということを実感している。

私は今期、

以上の作品を観た。サクラクエストRe:CREATORSは2クールなので視聴を継続するつもりだ。たった6本だが、最近の私の精神状態から言ってこんなにも沢山の作品を定期的に観るというのは考えられないことだ。本来なら異常な努力を要する作業だ。だが私は観ている。暇な学生時代なら知らず、今の私は日中働いている上に欲望や意欲がまるで湧いてこない。それなのにアニメを観たいという意欲だけは継続できたということに驚いているのである。そして、アニメを観ることによって確かに私はつい最近までに比べて少し救われている。

個々の作品についての感想や批評を行える段階にはまだない。そこまでの感受性は取り戻せていない。ただ、少なくとも視聴したいと思わせてくれる作品であったことには間違いない。そのことに私は、私としては珍しいことなので本当に自分でも驚いているのだが、これらのアニメとそれを作った人々に感謝をしたい気持ちになっている。こんなふうな欲望、意欲、感受性がまだ自分にも残っていたということが感じられて、まだかろうじて生きている状態を継続することができると思えた。生きることが良いこととは思わないが、生きていることに意味を見いだせない時間は端的に苦痛なのである。しかも、そうなる前の自分には到底想像もできないような苦痛である。

今も苦痛は続いている。時間は重いままだし、無味無臭だし、以前の感受性が自分に戻ってきたとは全く思うことができない。今もって自分が「ある程度までは救われた」とは全然思うことができない。ただ、それでも、マシになったとは思える。これはアニメのおかげなのである。だとしたらアニメが人間の心を救うと言えぬ訳がない。

しかし、ここまでつらつらと書いてきた自分の文章を眺めて思うが、私は一度心療内科に行ってみたほうが良いのかもしれない。

時代が何を必要とするのか

時代は何も必要としていない。社会は完成されてしまった。社会はそれ自体で存在している。歴史は終わった。議論というものはもう存在しない。

時代が必要としている言葉だけが注目されるという者がいる。確かにそうだろう。しかしそれだと何も言えないことになる。安倍死ねだとか在日死ねだとか日本死ねだとかいう言葉は時代が必要とした言葉なのだろう。しかしそんなことは言われなくてもわかっていることなのだ。それを度々繰り返して発言し、自己言及を繰り返しているのがこの社会だ。だから社会は円環を閉じている。社会は外部を必要としていない。否定の契機を必要としていない。弁証法を必要としていない。歴史は終わったのだ。

ならば私のようにこの世の一切を否定する人間がやるべきことは歴史を再び始めること以外にはありえないだろう。時代を再び未決の状態に差し戻すこと以外にはないだろう。それはノスタルジーによってはなすことができない。ただ否定によってなすことが可能なのだ。

どんなに死にたい気持ちになってもこの世を否定し続けることだけが望みだ。死にたくなっても生きる動機は否定にしかない。否定はもはやこの世には不必要なものだ。だから私は不必要なことをこそ行わねばならない。

ゴミやクズは産業廃棄物を大量に集めて叩きつけなくてはならない。

話題のことについて思う

身体障害者が飛行機に事前連絡無しで乗ることについて話題になっている。

原則として、身体障害者が健常者に比べてコストになるのは事実である。このことは身体障害者を差別するのかどうかとは関係ない。輸送サービスならなんであれ質量の大きい貨物や体積の大きい貨物がよりコストになるのと同様の意味でコストだということだ。 

なぜコストが大きいと言えるのか。この世は多数派である健常者が自分たちのために作ったシステムの上で成り立っているからだ。健常者であることを前提しているからだ。そこに身体障害者も問題なく使える仕組みを付け加えようとすると、当然効率の悪い運用とならざるを得ない。だから一見それは設計の問題のように見える。

設計をやり直せば良いという考えかたもある。健常者にも身体障害者にも対応できるという要件を(サービス提供者や利用者やそれを包含する社会の意識という)低レイヤーから組み込み、その上に個別のシステムを付加すればいい。確かにそうすれば今よりはマシなシステムが出来上がるのかもしれない。

だが、健常者が使う限りにおいて、健常者しか利用しないことを前提に設計された単純なシステムの効率と、健常者も身体障害者も利用することを想定したより複雑なシステムの効率とを比べて考えることが必要だ。それによって本当の意味での「コスト」の重さが見えてくるはずだ。

コストと言うとき誰がなんのために支払うコストなのかが問題だ。この場合に健常者が身体障害者のために支払うコストだと考えられている。そのことが表面上の論点となっていて、敢えて事前連絡無しで飛行機に乗り込もうとすることによってそのほかの健常者が余計に支払う時間的・金銭的コストと、身体障害者が享受する利便性を、ほとんどの世論は天秤にかけている。

だがこのコストの考え方は独りよがりだ。言うまでもないがこのような観点は健常者の懐具合しか目に入ってない。我々はコストを容認すべきだと言うリベラルな思想であっても、逆に我々にはそのようなコストを払わされるに足る正当な理由はないと言う「現実主義」の思想であっても、それをコストの問題だと捉えてしまっている時点で「我々」の中に身体障害者が含められることはない。 

「我々」はこの問題を考えるにあたっては身体障害者でもあり健常者でもある必要がある。「我々」が国民というレベルで話すのか消費者というレベルで話すのかに関わらず、身体障害者をも含めた「我々」でなくてはならない。だが身体障害者を差別してはならないからそうなのではない。日本が身体障害者の存在を認める場所として存在している以上そうである必要があるのだ。

身体障害者を認める場所であるということは、身体障害者を当然に包含することを前提とした場所であるということだ。だからいかなる場合にも「我々」は身体障害者でもある必要がある。「我々」とはそのような全体の謂いである。そのことが往々にして忘却されるのは、身体障害者が差別されているからというよりは、そもそも人間にとって全体を意識することが非常に困難だからである。人間は自分が住んでいる場所の全体をうまく意識できない。それによって差別という現象が生まれると言った方がいい。

だから「身体障害者の視点から考える」といったようなリベラルな理想を追求するなら、全体のことを絶えず意識する必要があるのだ。全体は、全体自身のためを本当の思うのであればどんな「コスト」でも支払うだろう。他ならぬ自分自身の利便性を得るためなのだから。

現実主義者にとっても全体は重要である。現実的に考えても社会は総動員の体制にある方が効率が良いからだ。そもそも近代社会は何らかの「総動員」を経て成熟する。そこでは男も女も子供も老人も自らがなし得る限りのことだけをなし、それによって全体が成就するという構造があるからだ。そこに身体障害者も含まれるべきであることは言うまでもない。

全体だけが、本当に考えるべきことなのである。健常者だろうが身体障害者だろうが全体のことを考えるべきだ。

 

 

島原に行った思い出

昨日から島原に一泊し、今日戻ってきた。

以前大学の後輩Kが九州に旅行しに来たとき、彼の知り合いと混じって私も一緒に旅行した。そのT氏という知り合いに、以前からまた飲みましょうと言われていたので休みの日に訪ねていくことにしたのだ。

手土産には香梅の陣太鼓を買った。熊本港に車を置いて、フェリーの往復チケットを買った。昼時だったので港の中にある喫茶店でスパゲティを食べた。

フェリーの中ではキンドルラノベを読んでいた。『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』という、今アニメ放映中の小説だ。ラノベを読むというのは本当に久しぶりのことだ。中身に関しては特に言うべきこともない。先入観そのものの内容とだけ言えば足りるだろう。ラノベ依存症患者だった私であるから、久しぶりに摂取した薬物が覿面に効くせいでどのような内容でも取り込むことができた。

ラノベはすぐに読み終わった。甲板に出た。天気は良く暑かったが海上では風が強く、長袖を着た。中国人やDQNの家族連れを見物した。

一時間ほどで島原港に付き、徒歩でアーケードまで向かった。島原港は中心市街地から南に2キロほど離れたところにある。徒歩ならば30分程度の道のりだ。途中で見つけた神社などに寄り道をしながら国道沿いを歩いていった。

ホテルは中心市街地にある。16時にチェックインし、荷物を置いた。T氏に連絡し、合流した。T氏と会うのは二度目なので、そんなに気心が知れた仲というわけでもない。共通の友人であるKの話などをしながらアーケードをぶらぶらし、居酒屋を物色した。

17時にならねば居酒屋が開かないので、それまでは適当に歩いた。最初に訪ねた居酒屋では予約満席で入店を断られたので別の店に行った。多少フライング気味だったようだが店に入ることはできた。

T氏は気の良い人物で、歓待してくれた。私は会話力がなく、適当な話題を見つけることもできず、正直盛り上がらない話題を展開していたが、彼はそれを補う実に良い話題を提供してくれた。Kの過去の話などをして盛り上がった。

2時間半ほど飲んで、別の店に移動した。二軒目では壱岐ゴールドという焼酎のボトルと氷を頼んだ。T氏は半端なく飲んでいた。私もごくごくと飲んだ。店のお上は招かれざる珍客、酔漢に対しやや冷淡な対応をしていたような気がするが我々はもはやsakeで優勝している状態なので気にもしなかった。ボトルはついに空になり、もう一杯グラスで壱岐ゴールドを、と注文すると、その酒はグラスでは提供していない、とにべもなく断られた。仕方なく別の酒を頼み、その一杯を飲む頃にはKの話題に依存せずなにか深刻な話をしていたような気がする。

ここからはだいぶ記憶が危うくなるが、二軒目を出てからは目の前の屋台に入った。おそらく三軒目に行くかどうかは微妙だったのだろうが、私は屋台を目にして感激してやや無理やり席についたのではなかったかと思う。地元のおじさんが先客にいた。屋台は夫婦でやっているようだったが、その夫婦も先客も良い人物に感じられ(というのはおそらく客たちも我々もsakeで優勝しているからだが)、おでんを適当に提供してもらいつつ焼酎を飲んだ。次々に客が増えていく。人気の屋台らしい。

客の話によると、昔は屋台が三軒ほど有ったが今はこの一軒のみらしい。島原の街の規模に比し屋台があるというのは珍しいことだと思う。島原は見たところ昔からあるものを非常に大事にする土地だと感じた。城や建物だけでなく、屋台も是非残して欲しい。

屋台ではT氏と話すことが殆どできず、客たちの話に相槌を打つのみだったのが少し悔やまれる。客に勧められるまま屋台のラーメンを食い、解散した。おそらく23時頃だろう。T市の家の前まで歩いたところは覚えているが、そこから先どうやってホテルに帰ったのかは全く覚えていない。

翌日は4時半ころ目覚め、二度寝することもできず7時半に朝食を摂った。焼酎ばかりのんだお陰で二日酔いはそれほどひどくなかった。

9時半にチェックアウトし、アーケード内にある温泉に入った。外は暑いのに二日酔いのせいか身体は冷えていた。なので湯はとても気持ちよかった。

アーケードや城を見物する気力もなく、島原港に向けて歩いた。今度は寄り道せず、11時には港に着いた。すこし早いが腹が減ったので昼食を摂りたかったが、港には適当な店が無い。スマホで調べて焼肉の店に行ってみようと思ったが、「休店中」と札が下げてある。しかし、その向かいに寿司屋を見つけた。普段私は寿司屋などには決して入らないが、その店はおかしなことに「ちゃんぽん」などの看板を出している。不思議な寿司屋だと思ってそこで飯を食うことにした。

親切なお上がいて、焼き飯を注文することにした。寿司屋のカウンターがあるが、もはや寿司は握られていないようだ。食事と酒を出す居酒屋という雰囲気だ。私がにんにくの香りがする焼き飯を食っていると、案の定爺さんが一人入ってきて、ビールを飲み始めた。ここは昼間から酒を飲める店なのだ。そういう店は町に一軒は必要だと思う。ただ、店の中に「集合無意識」と筆で書かれたものが額に入れて飾ってあるのは不思議だった。あれはなんなのだろう。また島原に行ったら寄ってみたい。

フェリーの中でも寝ることができず、ラノベを読んだ。熊本港から車に乗り、なんとか家にたどり着いた。爆睡し、夜に起き、今これを書いた。

ニート、ミニマリズムと新自由主義の関係について

最近小屋ぐらしというものに興味が出てきて、『自作の小屋で暮らそう』(高村友也)という本を読んでいる。読めば読むほど、新自由主義的な生活だと感じる。自分で土地の値段や費用を計算し、法律なども調べ、土地を買い、材料や工具を買い、家を建て、「コスパの良い」暮らしをするという本だ。まるでロビンソン・クルーソーみたいじゃないか。読んだことないけど。

また、山奥ニートという人がいる。萱野稔人も出ている以下の動画を御覧ください。

youtu.be

これも新自由主義だ。新自由主義に適応した生き方だ。

なぜそう言えるのか。wikipediaで「新自由主義」を繰ると、こうある。

……一般的な新自由主義的な視点では全ての人類は自分自身を管理する起業者で、そう行動すべきとする。個人は起業家と同様に将来を含めた自己のステータスを最大化するために友人、趣味、スポーツ、配偶者などを選択するという長所の倫理である。この姿勢は初期の自由主義には見られないが、市場原理を人生の非経済的領域に拡大したものであり、新自由主義の特徴的な点である。

重要なのは、自分自身を管理する起業者である、という点だ。つまり自分という商材を扱う営業マンなのだ。営業とは何も外回り・外交だけが営業なのではない。営業とは本質的にはマネージメントだ。損を出さないように自分を効率良く管理できれば立派な起業家なのだ。そういう意味でニートミニマリストたちは起業家であり、新自由主義者だ。

断捨離というのも新自由主義的な観念なのである。それは「リストラ」と全く同じ発想に基づいている。有用性とコストが見合わなければ捨てよう、つまり「コスパ」が悪ければ捨てようという考えだからである。なぜ断捨離という名の「リストラ」をするかというと、自分という企業に対し損を与えるからである。企業にとっての損は赤字のことだが、自分にとっての損は赤字だけとは限らない。体調や精神的な健康状態もその計算に入る。

この論理をさらに進めていけば、(ガチなそれではなく)日本人が精神の健康のために取り入れるヨガや瞑想というのも新自由主義の一形態に過ぎないということがわかるだろう。起業家としてそれを取り入れたほうが良いと判断するから彼ら彼女らはそれをするだけである。

普通はニートとかミニマリストとか小屋ぐらしとか言うものは、新自由主義から「降りた」人たちの生き方だと思われているだろう。だがその理解は間違いである。彼らは新自由主義者だからこそその生活を選んだ。彼らがその生活をするためには、自分にとって何が必要で何が必要でないかという経営判断を下す能力、さらにはその判断を行うために情報を集める能力(情報強者)、さらにその世間一般とは異なる生活を維持していくための問題解決能力や、論理的推論能力が必要である。また山奥ニート氏のような例には顕著だが、類まれなコミュ力も備えている必要がある。日本一有名なニートphaもこの能力に恵まれていた。

こうしてみれば彼らはどうみても新自由主義の市場においても十分にサバイブしのさばっていく能力を有しているとしか思えないのである。事実彼らは有名になることによって新自由主義者としての優秀さを世間にアピールしている。

だが彼らは主観的に自分のことを新自由主義者だと思っているだろうか? おそらくそうではないに違いない。しかしその点こそ新自由「主義」の素晴らしい特徴なのである。これに関しては次回また書いてみようと思う。

同じことを書いていくしかない&新自由主義は素晴らしい

毎日過ごしていて、特筆すべき新しいことなどそうそう起こらない。せいぜい月に一度あれば良い方であろう。だから話すことなど何もない。書くこともない。生きれば生きるほど、ほんとうは人間は寡黙にならなければおかしい。

しかしそれだと寂しくなってくる。精神の健康を保てるレベルのコミュニケーションというものが不足してくる。だから年寄りは無理して喋る。喋る程のことなど無いのに、喋ろうとする。だから同じことを繰り返す。昔私はそういう老人のことが嫌いだった。と言うより今も嫌いだ。特に自慢話を繰り返す老人たちはすぐに死んで欲しい。でも、同じことばかり繰り返し喋る年寄りの中には、明らかに寂しさから無理してそうしている人もいる。そういう人に対しては、多少理解の眼を向けることができるようになった。

人間には語るべきことなど本当はなにもないのだ。しかし語ることを本能として運命づけられているのが人間でもある。だから人間は大人になるにつれ無駄なことばかり喋る。そしてそれで良いのだということが最近になって少しだけわかってきた。無論、話に付き合わされる側にとってみれば迷惑ではある。そこはお互い様として納得して付き合うしか無い。代わりに自分も話したいことを何度でも繰り返し話せば良い。

だから私も同じことを何度も何度も繰り返し書こうと思う。新自由主義は素晴らしいということを。しかしなぜ新自由主義が素晴らしいかということを、違った方向から説明してみたいとも思う。

新自由主義が破壊するものとして優れているということは先日書いたようにわかった。しかしそもそもなぜこの世の一切合財を破壊せねばならないのだろうか。そうした方がいい理由は何か。

当然のことではあるが、この世がくだらないからである。この世は本当にくだらない。だから破壊したほうが良い。この世を破壊してくれる新自由主義は素晴らしい思想であり方法である。特に、この世界で損な役回りを演じることを余儀なくされている者たちにとって、世界を破壊し更地に変えて白紙からやり直させてくれるようなものは断固肯定すべきである。たとえその破壊の対象に自分自身が入っていてもだ。

最近は文部科学省からの有名大学への天下りの問題が連日ニュースに流れてくるが、これも新自由主義がもたらした喜ばしき風の一つである。学者の地位などはカネで買われることによってその実質を失い、文化・文明としての大学は空洞化するべきなのだ。これも破壊の一つだ。これをけしからんことだと怒る真面目な人間が多数いるはずだが、それ以外に密かに溜飲を下げている人たちも居るはずである。ざまあみろと思っている人たちも居るはずである。大学など滅びてしまえと思っている人たちも居るはずである。新自由主義はそれらの憎しみ全てを抱擁しながら人間の願望を成就させていく。特に負の感情に対して新自由主義は優しい。だからこの世は人間の願望のとおりにどんどんと破壊されていくのである。

私はその様子を眺めているのが楽しくて仕方がない。我々を辛い目に合わせてきたこの世界が悪い方へ悪い方へと流れていくのは楽しい。なぜそう楽しんでいられるのかというと、我々の様な人間はこれまでもう既に相対的に辛い目に遭ってきているので、どちらかと言うと失うものが少ないからである。それよりも昨日まで幸福に暮らしていた人間たちのほうが新自由主義のお陰で不幸に陥る確率が高い。それは我々にとって福音である。この世の破壊の訪れの瑞兆だからだ。

どんどんとこの世は破壊されていく。生き残るための条件は過酷になっていく。それを端的に示しているのは情報弱者は低価格のサービスを受けることができないという昨今の携帯電話の料金体系である。またはいすみ鉄道のようにネットからしか予約を受け付けないというようなサービスの登場である。あるはPCデポである。これらは新自由主義がもたらしてくれた状況だ。MVNOやネット申し込みという形態は、むしろニート貧困層に優しい。ニート新自由主義に虐げられているのではない。ニート新自由主義に適応した存在なのだ。だからニート新自由主義による破壊が尚進んでも生き残るだろう。少なくとも情報弱者よりも生き延びる。同じようなことは貧困層にも言える。国産メーカーやブランドメーカーの無駄に高いパソコンばかり買い換える金持ちよりも、中国製の「コスパ高い」PCやらスマホで毎日ネットに張り付いている貧困層のほうが、情報には強いだろう。そういう存在がネット長者になる。毎日毎日Twitterその他に張り付く行為も全く無駄ではないどころか生き延びるためのスキルとなる。

我々人間のクズは、世に憚らなくてはならない。それだけが生きる意味と言っても良い。幸福な人たちが不幸な目に合うのは何物にも替え難く楽しい。ルサンチマンの開放でもあるし、何より破壊を第一の楽しみとする自棄的人間には社会の水平化は最高の理想でもある。この世が崇高なる新自由主義によって破壊されていく様を一秒でも長く眺めて楽しむために、我々人間のクズ、ニート、メンヘラ、その他のゴミみたいな人間達は、積極的に生き延びねばならないのだ。新自由主義を推進して、この世の全ての人間たちを地獄へ叩き込もうではありませんか!(革マル派の演説風に)