hkmaroのブログ

読書の感想など

感じたことの備忘録

ここ数年、ある思想家・活動家に興味があって集会などに参加したり、機関紙を買ったりしていた。だがどうにも拭えない違和感を覚えている。

彼らの集会はどこか馴れ合いめいている。切実さを感じない。無論、彼らの主観的には切実なのだろう。だが彼らの集まりにおいて感じる居心地の悪さは、私が大学の新入生の頃迷い込んだオタクサークルの部室内の空気とよく似ている。

彼らは大して面白くない話でよく笑う。よく笑うこと自体は良いことだ。だが、その界隈に多少詳しい人間であればその話題で笑うことが約束されているネタというものがあって、そのネタで予定調和的に笑い、集団の内と外の境界線を確認し合うという行為がどうしても自分には馴染めない。

もしかしたらこれには、彼らの問題以外に私のパーソナリティの問題も影響しているのかもしれない。私はいわゆる空気の読めない奴で(思ったことをズバズバ言えるコミュ強という意味ではなく、その全く逆のコミュ障という意味で)、複数人の人が話しているときに皆がなぜその話題で笑っているのかわからないというか、全く共感できないという瞬間に立ち会うことがよくある。

しかし、彼らのノリとの合わなさに関しては私の人格のみが原因ではないと思う。彼らの会話の様子は二次元オタクそのものである。話のネタがアニメ・マンガ・ゲームから政治・思想に変わっただけだ。

彼らは党派を形成したり、勉強をしたり、教化されたりしたいのではない。友達が欲しいのだ。会話を楽しみたいのだ。彼らの思想にとって党員の拡大、革命的主体の確立よりも友達同士のつながりのほうが重要だと言うのであればそれはそれで正解なのだろう。だが私にとっては重要なことが違った。

私は教化されたい。革命的な主体になりたい。そのことが身にしみてわかっただけでも、彼らの集まりに顔を出してみたことは悪いことではなかったと思うことにする。

本当に革命的なことを考えている人間は、今の時代であれば、とにかくカネを稼いでいるはずだ。いわば、新自由主義にそまり、搾取する側に回り、世界を解釈したり糾弾したりするのではなく、世界を具体的に変革し、転回させているはずだ。身も蓋もなく形容するならば、現代では成金こそが変革者なのだ。

本当に当たり前といえば当たり前のことだし、ビジネス書に書いてあるようなつまらない結論のようにも我ながら思うが、事実そうだとしか思えなくなっている。新自由主義は、いや、もっと広く資本主義は、教養主義を破壊した。共同体を破壊した。文化を破壊した。主体を破壊した。思想を破壊した。自然を破壊した。そして人間を破壊した。資本主義の荒れ果てた世界で生き残る強者とは、最強に破壊的なニヒリストであるだろう。

革命は、つまるところ破壊である。革命家には行政能力は無い。革命家には未来のビジョンなどなくても良い。ただ破壊の意思があればいいのだ。そして資本主義はそれとは一見わからないような形で破壊を本当に見事にやってのけたし、これからもより一層巧妙に破壊を推し進めていくだろう。

破壊を旨とする革命的人間にとって、このことが喜ばしくないはずがない。そして、馴れ合いに満ちたあらゆるヌルい空間をカネの論理によって無慈悲に粉砕してほしいとも願っているのである。

新自由主義の手先としての革命家は、無価値なものには死をと唱えるだろう。だが彼自身価値あるものとは何かを全く知らない。荒れ果てた更地からまた人間がやっていけるようになるのなら、破壊的新自由主義者の行為はこの上なく偉大である。新自由主義と資本主義は、一切合切の破滅と死を望む者にとっての絶望的な福音である。

日記

 どこかに安住の地が欲しいものだ。気軽に愚痴を言っても許されるような場所が欲しい。 

 最近、愚痴めいた言葉を吐き出す場が少なくなったと感じる。要因はなんだろうか。愚痴りたいことが増えすぎたのか。それとも、単に本当に愚痴を言える場所が少なくなってしまったのだろうか。まあ、どちらでも良いことではある。大事なのは、愚痴れるかどうかなのだ。愚痴に関する考察ではない。愚痴るには多分、スナックにでも行けば良いのだろう。一人でスナックに入るための胆力と金力が欲しい。

 三日前から風邪をひいて寝込んでおり、今日は治りかけで、外出して酒飲んだりするのはちょっときついが、さりとて部屋でひねもす寝転んでいるのも辛いという状態であるから、本を読んでいた。スガ秀実の『革命的な、あまりに革命的な』だ。意外な人物たちの革命性が論じられていて面白い。例えば大江健三郎の60年代の作品にはファシズム的な、保守革命的な要素があるという論は感心した。確かにオーケンの60年代の小説は面白い。特に「性的人間」「セブンティーン」などは楽しく読んだ記憶がある。大江本人の戦後民主主義者的発言など無視して良いという主張も良い。確かに無視して良いようなことしか言ってない。

 スガ秀実という人は現在活躍している著名な批評家の中では1968ということに強くこだわっている稀有な批評家である。色々本を読んでいると、この1968という年がいかに重要だったかがわかる。先日『創られた「日本の心」神話』を読んだ際にもそれを感じた。1968がなければ今日的な大衆文化というものはなかったろうし、文化的ヘゲモニー共産党的エリート主義に席巻され、日本はさながら共産圏の国のようになっていたかもしれない。まあ今日の大衆文化もダメだとは思うが、俺は共産党員が書いた小説など読みたくもないし、共産党員が作ったテレビ番組など想像しただけで寒気がする。

 しかし大衆文化は現在、1968の頃と比べて大きく変貌してしまった。新左翼の人たちが仮託した土着性や泥臭さ汚さ、それ故の純粋さを、もはや持っておらず、「動物」「畜群」と表現したほうが当たっている様な何かになってしまった。彼らにおいては生殖も排便も食事も同じことである。生殖と排便と食事だけが延々と続いていく極めて効率の良い人類の社会だけが残ってしまった。俺は1983年に生まれたが、その35年前に生まれたかった。そうであれば、生殖と排便と食事以外にも、人間にするべきことが他にも有ったのだ。そのことが羨ましくて仕方がない。

いまや30台中盤の独身のキモくて金のないおっさんだけど、メモリージャーを始めてみたいと考えているんだ

 もうこの世に楽しいことなんて何も無い。幸せなんて全然感じない。自分が幸せと思ったことも無い。そもそも幸福は資本と同じようなものじゃないか。幸せなやつはどこまでも幸せになるんだ。毎日毎日楽しいと思ってるからいろんなことにやる気がでるし、いろんなことにトライできる心の余裕がある。確かに俺も人生の一時期まではそうだった。でもそんな時期は終わってしまった。案外短かった。幸せを使い果たしてしまったんだ。

 幸せっていうものはお金みたいなものだ。お金はたくさん持ってれば自然とお金が集まってくるもんだ。利子っていう仕組みがそもそもそういうもんだし、ある程度お金をかけて着飾って余裕をもって毎日過ごせばお金持ちという評判がたってみんなから信頼されて重要な仕事を振ってもらえる率も高まるというものだろう。教養もお金があるからこそ身につけられる。教養はお金がなければ身につかないんだ。

 大金持ちはさらに大金持ちになっていく。小金持ちはだめだ。小金はそれ自体でカネを増やすところまではいかない。毎日生活しているうちになくなってしまう。せめて一億円くらいは資産として持っていないとそれだけでお金を増やすことは難しいだろう。さもなくばあくせくと働かなければならない。貧乏人の想像だから合っているかわからないけれど。

 幸福にも同じことが言える。ちょっと幸せ、というくらいの幸せはすぐに使い切ってしまう。生活しているうちに、幸せがどんどんこぼれていってしまう。ものすごく幸せな人間は違う。その幸せにつられて沢山の人が集まってきて、もっとたくさんの幸せを貢いでくれる。人気者になる。だから幸福な人は何があっても幸福なのだ。逆に幸せを使い切ってしまった人はどうなるのか。もう一生不幸なままだ。誰も寄り付かない。一緒にいても幸せそうに見えないから、人はどんどんと離れていく。孤独になる。

 そんな不幸せな人にも支えはある。酒だ。あるいはクスリだ。あるいはギャンブルだ。そういうものは不幸な人であっても摂取すれば不思議に不幸をごまかすことができる。だからどんどん摂取してしまう。依存する。その依存が実は多分その人をもっと不幸にする。だから、不幸な人は幸福にはなれない。

 でもいくら不幸であっても人間は幸福を目指すものだ。それは当たり前だ。辛いよりも楽しく楽に過ごせるほうが良いに決まっている。貧乏だからと言ってもカネは無いより有ったほうが良いに決まっているのと同じだ。貧乏な人がカネを夢見るとき、一体何をするだろうか。どうやってカネのある状態を作り出そうとするだろうか。多分、貯金箱を買ってきて少しずつ貯金するのだ。実際、俺はカネの無いおっさんだけど最近貯金というものを始めた。所詮三日坊主で終わるのかもしれないが、やらないよりは良いはずなんだ。だから始めた。

 同じように、幸福も貯金ができるはずだ。なぜなら幸福はカネと似たようなものなのだから。幸福の貯金はどうやったら実行できるのか。最近ツイッターで見かけたが、メモリージャーと言うものがあるらしい。透明の小瓶に、幸せな事があったら紙に書いて入れておく。透明だから瓶を眺めると楽しかったことが思い出せるし、紙が貯まると幸せなことがたくさんあったと実感できるらしい。そして挫けそうなときは瓶を開けて心を慰めるらしい。

 元々は海外の少女達の間で流行っていたものらしいが、多分日本人の女性たちもやっているのだろうと思う。男は、特におっさんはやっていないだろう。しかしこの幸福の貯金は日本のキモくてカネのない孤独なおっさんにこそ必要だと思う。なぜなら我々おっさんはこの地上においてもっとも幸福を感じにくい層の一つだと思うからだ。だから俺はやる。メモリージャーをやる。キモくてもやる。カネの貯蓄と同時に幸福の貯蓄も行う。それによって幸福をほとんど感じない生活において、少しでも幸福を実感したいと思う。幸福を増やし、ピューリタン的に蓄財に励みたいと思う。思い出を反芻して生きるのだ。

幼少時の母親との関係

 思えば人生が成功するか否かは幼少時に母親と適切な関係を築けていたかどうかに全てかかっていると思う。実の母親でなくても良い。

 俺の人生がうまくいかないのは母親との関係のせいだ。俺は母親が嫌いで、いつか殴ってやりたいと考えている。吉本隆明は3歳まで母親と密着して育てられなかった人間はおかしくなる、とかいうことを言ってたように思う。その説を読んだ当時はオカルトだと思った。しかしそうではないということが理解できるようになった。『ヒトの本性』(川合伸幸)という本にこういうことが書いてある。

 ハーロウと同僚のスオミはさらに研究をつづけ、生後六ヶ月の仔ザルを母親や仲間から隔離して育てる実験を行いました。しばらくしてから集団に戻された仔ザルは、ほかの仲間と毛づくろいをしたり、遊ぶというような社会的行動をいっさい示さず、仲間からの関わりにも適切に反応できなくなっていました。日がな一日自分の身体を抱きしめたり、指をしゃぶるなどの異常な行動をしつづけたと報告されています。
 わたしもかつて、ある研究所で隔離して育てられたサルを見せてもらいましたが、糞を撒き散らし、人が来ると飛び回って金切り声をあげて、飼育ケージのなかでもぐるぐると回転して威嚇し、とても観察しつづけることができませんでした。
 ハーロウたちは、母親と仔ザルの二個体で育てる実験もしています。しかし、それでも仲間と遊ぶ機会を奪われた仔ザルは適切な社会行動を発達させることができませんでした。
 なお、サルといえども、いまではこのような実験を実施することは、法律や研究機関のルールで禁じられています。

 もう俺はまともな人間という自覚をこれっぽっちも抱いていないし、俺の遺伝子は絶やすべきだと思っている。だからこの先ずっと一人で生きていくだろう。普通の死に方はできないだろう。つまり、孤独死するだろう。母親との関係が正常でなかった俺は、適切な社会行動というものをどうやれば実行できるのか皆目検討がつかない。だから友人などは減る一方だろうし、普通に会話できる相手ですら事欠くだろう。

 今考えるべきことは、どうやれば苦痛を感じずに生存できるかだけだ。できるだけ痛みを感じずに死んでいける方法だけだ。不思議なことに、死にたいという考えは起こらない。寿命が来るまでは生きていざるを得ないという諦めのような気持ちのみがある。

最近読んだ本

吉本隆明という「共同幻想」』呉智英

呉智英吉本隆明を批判した本の文庫版。だが、どう見ても吉本隆明が好きすぎてこういう本を書いてしまったとしか思えない。確か単行本は吉本が死んだ直後に出たはずだが、そんなタイミングでこんな本を出すということ自体に歪な愛情を感じる。

硝子戸の中』『こころ』夏目漱石

実はここ数ヶ月くらい漱石を読んでいるのだが、なんというかまったりしていてそろそろ食傷気味だ。話も長編は特に大体似たようなのが多く、友達の女を略奪したとか、女を心の底から好きなわけではないが人に取られるのは嫌だとか、そういう話ばっかりだ。今読んでる『道草』はそれ系とは違う話だが、これはそういう恋愛ものに輪をかけて退屈な内容だ。

『新釣れんボーイ』いましろたかし

これは全体小説のようなマンガだ。こんなに面白いマンガはなかなか無い。

『創造元年1968』笠井潔押井守

全共闘世代にも年長組と年少組があるらしい。年長組はおそらく、1949年以前生まれくらいの者を指すと思われる。対して年少組は1950年以降生まれの者で、1968のときには高校生かもしくは新入生くらいで、いわば「兵隊」として駆り出されていたり、下っ端としてこき使われていたり、高校で闘争を夢見ていた者たちだ。高校生が戦うことの難しさはこの本の中で押井守が言っているし、村上龍の『69』にも書かれている。年少組の価値観は押井守村上龍に代表されると思われる。私はこの年少組の考え方が好きだ。マルクスやら共産主義やら世界平和など微塵も信じていない。ただ世界に対する暴力的な否定の衝動が先にあって、後から色々な言葉がついてくるだけのようだ。そういう者の革命観のほうが信用できる。
この本を読んでいると年長組と年少組の温度差みたいなものがわかる。言うまでもなく笠井潔は年長組だ(表紙の写真だと押井守のほうが年長に見えてしまうが)。冒頭で笠井潔は、自分が当時実際に関わっていたのは年少組の奴らだから俺はむしろ年少組だ、というようなことを言うのだが、そういう口ぶりもどこか年長者の強かさを感じる。私は気分としていまいち笠井潔を信用することができない。

今日読んだもの

slib.net

 少女小説というものなのだろう。私はその方面の小説はほとんど読んだことがないが、以前百合漫画に異常にハマっていた頃のことを思い出す。

 死にたい気持ちの描写がとても良い。死にたい気持ちは孤独な気持ちととても関係が深い。主人公は虐められているから孤独なのだろうか。私はそうではないと感じる。孤独は心象として現れてくる。いくら自分に寄り添ってくれる存在が現れようとも、孤独を拭うことが主人公の晏奈にはできない。

 死にたい気持ちは、海や、プールや、街や、映画館や、神社や、公園という景色に宿っている。死にたい気持ちと世界の現れ方は一体である。社会的な場に赴くことによっては孤独は埋められない。単に人と会話するだけでは死にたいままだ。だから言葉よりも歌のほうが死にたい気持ちに寄り添ってくれる。そして小西海は、音楽として晏奈の前に現れてくる。

 小西海は晏奈にとって世界の変容として映っている。あるいは兆しとして。そうした兆しが例え小説の中にしかなくても、それが音楽のように読む者の死にたい気持ちに寄り添うなら、小説は確かに読む者を救えなくとも癒やすだろうし、死にたい気持ちが消えなくとも生きさせることができる。

 死にたい死にたいと思いながらでも生きることが、世界への報復の始まりなのだから、死にたい人間はそれでも生きているだけで世界に対して見事に戦っているのだと思う。

戻ってきた

 Wordpressのブログを閉じ、こちらのブログに戻ってきた。

 どこで書いていようと誰にも読まれることはないのなら、どこで書いても同じことだ。だからこっちに戻った。Wordpressのサイトは閉じた。

 星空文庫での投稿を再開することにした。

slib.net

 あれから色々変わった。仕事はやめて別のところで働いているし、沢山の人と疎遠になった。一番好きな家族だった祖母も死んだし、住む場所も変わった。しかしブログを書いていた頃に戻りたいと思ってここに戻ってきたような気もする。

 本当はもっともっと昔の自分に戻りたい。毎日毎日外出もせずにアパートに閉じこもって自慰と宅録エロゲーばかりしていたころに。1リットル紙パックのお茶とタバコだけが友達だった頃の自分に。しかし同時にその頃の自分は黒歴史でもある。政治と文学のことなど何も考えてすらいなかった頃の自分だ。何かのために生きるとか、何かのために死ぬなどということはまるで思いもしなかった頃の自分だ。知らないがゆえに書ける曲や文章もある。今の私は、その時の思考を思い出すことすらできる気がしない。

 だからその中間のここが丁度よい気がしている。ブログが続くかどうかはわからない。ただブログを書くくらいしか読書の感想を吐き出す場がないのも事実だ。

 きっと、何か読めば書くだろう。