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hkmaroのブログ

読書の感想など

今日読んだもの

slib.net

 少女小説というものなのだろう。私はその方面の小説はほとんど読んだことがないが、以前百合漫画に異常にハマっていた頃のことを思い出す。

 死にたい気持ちの描写がとても良い。死にたい気持ちは孤独な気持ちととても関係が深い。主人公は虐められているから孤独なのだろうか。私はそうではないと感じる。孤独は心象として現れてくる。いくら自分に寄り添ってくれる存在が現れようとも、孤独を拭うことが主人公の晏奈にはできない。

 死にたい気持ちは、海や、プールや、街や、映画館や、神社や、公園という景色に宿っている。死にたい気持ちと世界の現れ方は一体である。社会的な場に赴くことによっては孤独は埋められない。単に人と会話するだけでは死にたいままだ。だから言葉よりも歌のほうが死にたい気持ちに寄り添ってくれる。そして小西海は、音楽として晏奈の前に現れてくる。

 小西海は晏奈にとって世界の変容として映っている。あるいは兆しとして。そうした兆しが例え小説の中にしかなくても、それが音楽のように読む者の死にたい気持ちに寄り添うなら、小説は確かに読む者を救えなくとも癒やすだろうし、死にたい気持ちが消えなくとも生きさせることができる。

 死にたい死にたいと思いながらでも生きることが、世界への報復の始まりなのだから、死にたい人間はそれでも生きているだけで世界に対して見事に戦っているのだと思う。

戻ってきた

 Wordpressのブログを閉じ、こちらのブログに戻ってきた。

 どこで書いていようと誰にも読まれることはないのなら、どこで書いても同じことだ。だからこっちに戻った。Wordpressのサイトは閉じた。

 星空文庫での投稿を再開することにした。

slib.net

 あれから色々変わった。仕事はやめて別のところで働いているし、沢山の人と疎遠になった。一番好きな家族だった祖母も死んだし、住む場所も変わった。しかしブログを書いていた頃に戻りたいと思ってここに戻ってきたような気もする。

 本当はもっともっと昔の自分に戻りたい。毎日毎日外出もせずにアパートに閉じこもって自慰と宅録エロゲーばかりしていたころに。1リットル紙パックのお茶とタバコだけが友達だった頃の自分に。しかし同時にその頃の自分は黒歴史でもある。政治と文学のことなど何も考えてすらいなかった頃の自分だ。何かのために生きるとか、何かのために死ぬなどということはまるで思いもしなかった頃の自分だ。知らないがゆえに書ける曲や文章もある。今の私は、その時の思考を思い出すことすらできる気がしない。

 だからその中間のここが丁度よい気がしている。ブログが続くかどうかはわからない。ただブログを書くくらいしか読書の感想を吐き出す場がないのも事実だ。

 きっと、何か読めば書くだろう。

再び引っ越し

http://hkmaro.sakura.ne.jp/blog/

自前のメディアを持つ、たとえ読者がいなくても自前のメディアを持つ、ということはどういうことなのだろうか、と最近しみじみと考えることが多くて、特に鷹部屋氏の「そうだよ新報」を読んで政治からサブカルまでフォローするそのテーマの豊富さや文字なのか絵なのかよくわからない、こういう言い方をして失礼でないと信じて言わせてもらうがかなりアウトサイダーアートチックな紙面を素晴らしいと感じるとともに、一方で同じミニコミ誌名でネットを検索してもほとんどヒットしない、つまり話題になっていないということを知ってからは、ますます自前のメディアって何だろうと考えるようになったのと、あと、はてなのブログを今迄は三年くらい使っていたけど自分の知らない所でと言うか無自覚な所でどんどんはてな的なものを目にする機会がそれのせいで増えてきていて、はてなブックマーク、まあ自分も使っているのだけどはてなブックマークって一体なんだろう、という疑問がどんどん自分の中で膨らんでいったのと、あとはてなというプラットフォームというかフォーマットというか下部構造に乗っかっている限り俺のブログの内容に合った読者を得ることってほとんどないんじゃないかという疑念もどんどんどんどん膨張してきていて、それゆえ独自の、無色の、不偏とまでは言わずとも自分オリジンの偏りに偏ったブログというものがあればいいのになと思って思い切ってワードプレスに引っ越すことにしてみた。このブログはサーバーをかりなきゃいけないので月々の支払いが発生する。その分きっと緊張感を持って書くことができるだろう。もちろん今度はワードプレス色に偏ってしまう、という結果を招くだけなのかもしれない。だがそれにしたってはてなが偏り過ぎているような気がする。というよりも、なんというか大きな内輪、という感じが凄いしていたのは確かなことなので、私は外へ行きたいと思った。

ここが外なのかどうか、しばらくは試してみることにする。もちろん、今迄どおりの下らない生活が垂れ流されるのだが、読書や思索をこれまでよりも多めに書いていこうと思う。もう誰にも遠慮することなく(悪口ばっかりを書くという意味ではない)書きたいことを書こうという心構えで。

切迫性について

本当に当たり前のことを言うようだが、文学とサブカルには別々の良さがある。ここでいう「良い」の基準は当然のことながらこれを書いている私自身が良いと思うかどうか、というだけのことなのだが、多分私以外の人でも文学とサブカルを同時並行的に受容して愛好している人が沢山いると思う。文学には時にサブカル的な要素が一切含まれていないが、それでも面白いし価値があると思えるし、逆にサブカルには文学的要素が一切含まれていない場合も多々あるにも関わらず面白いし価値があると思える。ということは文学とサブカルにはそれぞれ独自の価値があるわけだ。だからサブカル諸作品をまるで文芸批評をするかのようにして批評する言葉はなんかトンチンカンに響くということになるだろうと最近私は思っている。

ところで、私が考える「良い」の基準は、イデオロギーが露呈しているかどうかである。これだけ書くとまさにオカルトという感じだが、つまり作者や読者が自明視している何かが露呈していることが重要だと思う。読んでいて「あっ!」と驚くような内容が書いてあれば、とりあえずこれは良いものだと私は判断する。逆に驚かない内容が書いてあるものが無価値かと言うと、そうとも限らないのだが、しかし良いものに触れる体験は少なくともいつも驚きを伴っている。

だが文学で驚くときとサブカルで驚くときの、我々の(というか私の)受容の仕方がまるで違う。文学で驚くときは、驚いたのちに何かを反省させられるような体験が付随する。言葉で何か感想をまとめようという気になる。まあ、だからといって感想がうまく言えるかというとそうじゃない場合のほうが多いのだが、何かを意識化させられるような経験を得る場合が多い。何を意識化させられているのかと言ったら当然それがイデオロギーなのだが、つまり我々が自明視しているものだと思うのだが、翻ってサブカルで驚く場合は、この点については全く逆で、自意識のような反省的思考がほぼ消滅して没我の状態に陥ることが多い。つまり夢中になって摂取している。中毒のような状態になる。ということはイデオロギーが露呈しないのか、というとそんなことは全然なくて、そのような中毒症状が一時引いたときにふと反省してみると、「こういう作品」でこんなに中毒になってしまう俺、というものがそもそもイデオロギッシュな主体だということがハッキリと露呈してしまう。エヴァのSS読んで「シンジキュン(*´Д`)ハァハァ」という状態になってしまう俺、は、エヴァのSSなど存在を知りもしないような人々と比べてかなり違った価値観を持っているということがハッキリわかってしまう。

だから、文学とサブカルは各々違った方向から我々に驚きを与え、そして違う方法で我々のイデオロギーを露呈させる。だから私は、文学とサブカルに各々違った言葉を紐付けようと思う。文学は反省的である。もちろん、「反省的な文学」というものがそもそも文学の一部でしかないということも事実としてあるとは思うが、とりあえず現代の我々にとって問題となるような文学は常に反省的だと思う。古代の古典を読むにしても、確かにそれが書かれた当時は反省的思考などと無縁に書かれていたのかも知れないが、現代の目からそれを読む我々の視線は必然的に反省的にならざるを得ない。即自的に『古事記』を読むことは端的に無理だ。そして近代以降の文学はもうずっと反省的だ。

それに対してサブカルはほとんど反省的でない代わりに切迫性を持つ。萌え豚が愛好するような豚ラノベであっても、そんな「下らない」豚ラノベがなぜ萌え豚をこんなに引きつけるのかを考えた場合、そこに萌え豚達にとっての切迫性があるからだろうと私は思う。彼らは『インフィニット・ストラトス』とかを読んでほとんど身体的に「も、萌えー!!」と思うのだろう。かく言う私もエヴァのSSを読んで「も、萌えー!!」と身体的に思う。あるいは萌えに限らない。普通切迫性を持つサブカルと言ったら『多重人格探偵サイコ』とか『殺し屋イチ』とか、そういうのを思い浮かべる人が多いと思うけれども、それらはそれらで確かに切迫しているのだ。現代日本を生きる人々の色々な感情を確かに汲み取っていると言えるのだ。それに、だからこそ売れたのだろうと推測できる。

もちろんこのように二元論を作ってみたところで、同時に文学性と切迫性を備えている諸作品は文学にもサブカルにも沢山あって、そういうのが名作だとされているのだろうとは思う。しかし、二重の良さを兼ね備えている作品が沢山あるからこそ、文学性はあっても切迫性を持たない作品を「退屈だ」として切り捨てる態度や、逆に文学性はないが切迫性にはあふれる作品を「低俗だ」と切り捨てる態度が生まれてしまうのではないかと思う。これらの態度は実は混同である。文学にもサブカルにも各々良い点があるのであって、そういう区別がちゃんと出来ていればどっちかを持ち上げてどっちかを否定するというような態度は簡単にはとれないと思う。

で、これらの区別をちゃんと出来ている人というのは本当に少ない。言葉にしたら当たり前のことなのに、態度として実践できている人は本当に少ないのだ。フランス現代思想の言葉でマンガやラノベやエロゲーを分析するのも良いだろう。しかしそれが通用するのはそのラノベやエロゲーがフランス現代思想の諸概念が射程として捉えている範囲に収まるような文学性を持っている場合のみである(もちろん準拠する思想がそもそもサブカルを語っているのであれば話は別だが)。逆に「『罪と罰』のソーニャたん萌えハァハァ」という真逆の視線も無価値だ。源氏物語ライトノベルである! などと宣言する厚顔さには私は吐き気を催す。より正確には、この場合問題なのは、文学作品に切迫性を勝手に見出すことによって自分の愛好するサブカルを文学と同じ地位に置こうとする身振りであり、それはやはり救いがたくゴミである。それをする必要は全く無くサブカルには独自の良い点があるのに、文学の権威を引っ張ってこようとするさもしい精神に我慢がならない(文学作品に勝手に萌えること自体は別に自由だとは思う)。このことはもう結構まえから感じていて、どげんかせんといかん! と勝手に思っている、といっても私が何をやったところでどうにもなりはしないし、私の考えが誤りである可能性もおおいにあるし、もうほんと人生ってままならないことだらけだなあと思っているのだが、何か、なにかしら実践的な行動ができないかと考えていて、色々画策しているけれど実行できるかわからない。

Girls for M なる神様みたいなエロマンガ雑誌が本屋に置いてあってしかももう二号目だった

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これ。創刊号も是非欲しい! と思ってアマゾンで検索したら中古しかなくしかも定価を上回っていた。明らかに需要が過多なのだ。作家はなんか足りてないらしいし。次号は2013年4月とか書いてあるし。

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描き手さえいれば、それによって回転率が上がれば、きっとこの『ガールズフォーム』(と読むらしい)もガンガン出て月刊とは言わないまでも季刊、隔月刊とペースアップするはずだし、バックナンバーも手軽に手に入るようになるはずだ。というか創刊号を増刷して欲しい。モノがエロマンガなだけにそれを望んでいるM男も沢山いるはずだ。

中身はというと、

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このチェックリストを参考にしてもらえばいいと思う。特に「女>男の作品かと思いきや、オチで男>女に逆転する漫画を見ると気分が著しく落ち込む。」というのはもう本当に全くその通りという感じでM男のことを良くわかっているなあ、と感じる。女がサドな漫画は女に責められるノリでずっとやってればいいんですよ。男が逆襲するとかいう展開いらないから。何を勘違いしているんだ、という気持ちになる。

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お姉ちゃんの仕事帰りのくっさいムレムレストッキングを舐めさせるとか……M男のロマンがわかっている。

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このシチュエーションも良い。周囲にばれないように性的な刺激を与えられるのもまたロマンである。ファミレスのテーブルの下で向かいの彼女の足が伸びてきて……みたいな展開もM男の大好物であるが、似たような趣がある。

この雑誌はホントにすばらしい文化事業という感じですね。もっとどんどん出して欲しい。他社も見習って欲しい。もう一度作家募集の画像を貼っとこう。

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本当にM男を喜ばせる才能にはガンガン世に出て欲しいです。本当に。こう、キレイな足を描ける新しいエロマンガ家に出会いたい。キレイな足が躍動的に暴力行為を行う様を描けるエロマンガ家ならさらによい。私は新時代のM男の神に出会いたい。

終わらないエヴァ

「ヱヴァQ、オバQの間違いかと」 押井守がエヴァぶった斬り

 演出能力は抜群だからその気になるでしょうが、騙されたいと思って見るぶんには十二分に機能しても、表現を成立させるための方便に過ぎないから結末を引き伸ばすだけで、落とし所が想定されていないことは明らかですから、これはドラマと呼ぶべきものではありません。SF的な意味での設定は複雑に凝らしてあるものの、世界観は曖昧であり――テーマがないのだから曖昧でしかあり得ない――世界観なしに映画は成立しないから、その内実の無さを文字通り「補完」すべく、作品の作品内における再構築を繰り返すことで、映画としての無内容に代替させる。

 『エヴァ』という作品がいくらでも継続できる――永遠に終結させられない、それがほとんど唯一の理由でもあります。

ということを押井守が言っているらしく、まあこういう「エヴァはサンプリング&リミックスである」みたいな説ってのは庵野自身が認めていることで、『トップをねらえ!』の時からそういう趣はあったが、そのことがまあ他の監督とかから批判されているということなのらしいし、実際こういう「中身の無さ」みたいなものがある種のオタには「なんかすごそうなのに話の内容がよくわからんから許せん!」という鑑賞の手応えの無さに繋がって怒りを買ってしまうのだろう。確かにカネあるいは時間を使って話題になってる『エヴァ』をみてみたらよくわからない上にテーマが無く完全なオナニーだったということなら、向上心あるオタク達は怒るかもしれない。カネ返せという話になるかもしれない。

しかしこういう『エヴァ』のあり方を私はむしろ肯定的に捉えている。永遠に終結させられない、というのは良いことなんじゃないのかと思っている。小手先の制作技術は優れているが、テーマがなく、サンプリングだらけで、曖昧で、終わらせることができない。こういうある種スノビズムの極限まで行った様態は押井守の『ビューティフル・ドリーマー』内の「終わらない文化祭前日」を思い出す。まあ押井守はきちっとした「テーマ」のもと同作品を「終結させ」たわけであるが、しかしアレを観たオタク達はあの真夏の日々を繰り返している友引町を終結させたいと思ったのかどうか。というか、終結させたくねーと願っているオタクばっかりだから友引町のループが終わるという筋書きに批評性があるわけなのだが、しかしオタの正直な願望としてはもう永遠に高校生やってメガネやラムちゃんやしのぶやサクラ先生と戯れて文化祭前日みたいな毎日をエンジョイしてーwwwというのがあるのはこれはもう確実だ。

で、『エヴァ』というのは文化祭前日が毎日続いてる話なのではないかと上の押井守のブロマガだかなんだか知らないがそれの文章を読んで思ったわけ。もし『ビューティフル・ドリーマー』から「テーマ」の部分がスポッと抜け落ちたら、あたる達はきっと文化祭前日を繰り返してた筈で、で『エヴァ』に「テーマ」がないというのであれば、そしてアニメ的技巧だけは非常に優れているというのであれば、それはもうアニメ的世界のユートピアというか黄金郷というかつまり同じ一日を繰り返す友引町と事実上同一のものであると言って言えないことはない。「テーマ」がないおかげで我々は『エヴァ』の世界に永遠に留まっていられる。原作を消化し尽くしても読み切れないほどの二次創作がある。これは90年代当時から益々景気が厳しくなって家計が圧迫されている日本人(オタク)の娯楽として非常に効率的な永久機関的慰みだと言えるのはないか。エヴァにテーマがないおかげで、我々は萌え萌えアスカたん、ぽかぽかレイちゃん、親バカゲンドウ君らと面白おかしい毎日を過ごすことができる。もう竜宮城から帰る必要がない。押井守の上記引用記事は、「『エヴァ』それ自体が二次創作なんだよ!」と言っているようなもんだが、そのお陰でオリジナルの特権性は崩れ、我々エヴァオタは数多の二次創作(エロ)同人やSSを、まるでオリジナルであるかのように消費することができる。そしてエヴァの製作サイドもキャラの二次創作的イメージが散布されていくのをむしろ肯定しているように見える。各種ゲームやらパチンコやら碇シンジ育成計画やら山下いくとの『エヴァンゲリオンANIMA』やら、そのどれもが真面目なファンが読んだら「シンジはこんなこと言わない!」と激怒しそうな内容を多かれ少なかれ含んでいる筈なのだが、それはそれとして流通して売れていて誠に結構なことである。それもこれもエヴァにテーマが無いお陰だ。芯がないおかげだ。だからいくらブレても超オッケー。それゆえどんなシンジでもどんなエヴァでもぽかぽかする綾波ですら我々エヴァオタは楽しめる。だからエヴァって本当に良いものだなあ、と僕は思いました。

その実感を、庵野秀明が台本書いたという

これを聴いてさらに強くするわけ。もう、庵野秀明自身からしてSS書きだったんですよね。

メモ:私の文学観と大澤信亮がほんとにすごい記

少し前に円城塔芥川賞を受賞しかけて村上龍に科学的知識が間違っているなどと否定的に評価され結局受賞できなかったことがあったが、これに対する円城塔ファン? の反応として「文学には科学知識の正確さとか二次的だろ」だとか「そもそも円城は専門家だし別に間違ってないし」とかいう反応があって、もちろん芥川賞という狭い範囲に関してはそれは間違ってないというか、村上龍の振る舞いがダメだったというのはあるのだが、しかし円城塔を文学として読んでいる円城塔ファンが、作家が賞をとれたとれないで憤ったりしてるのは(いやもしかしたらしてないのかもしれないが)、現今の民衆の文学観というものをあらわしているような気がする。文学とは権威なのである。何か良いもの、「深い」ものであり、その「深さ」は権威や象徴的価値によって担保される。本来文学者にとって賞がもらえるかどうかとかえらい人に褒めてもらえるかどうかとかいうことは全くどうでも良いことのはずで、結果的にそういうこともあるかもしれない、というだけのものでなければならないはずだ。もちろん昔から王侯貴族に評価されたりパトロンを得たりして書いていたような人もいるだろうとは思うし、近代以前の文学に登場する悲劇の主人公はみんな王侯貴族で、喜劇を演じるのは貧しい階級の人々だった。この、悲劇=貴族/喜劇=民衆という文学の様式と階級の関係について書いたのがエーリッヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』で、文学と階級ということがマルクス主義批評的に重要だからアウエルバッハの著作も重要なのだろうが、それはさておき、文学は偉い人・貴族だけのものではないし、小説や詩を書くことで偉い人になれるかどうかということは、本来二義的なおまけみたいなもののはずである。偉い人になりたいのであれば小説や詩を書かず単に官吏や騎士か武士として活躍すればよくて、文学で偉くなろうというのは迂遠な道のりだ。単に偉くなるのではなくて文学で偉くなるのがいいんだ、という価値観もあるかもしれないが、そのような文学はどこまでも王様を賛美する小説や詩にしかならず現代読むにたえる代物ではないだろう。文学は文学であることがやはり第一義なのだと考えるべきであって、階級を上昇するためのツールであるわけがないし、自己自身に象徴的価値を付与するための、平たく言えばハクを付けるためのツールでもない(今はそうなっちゃっているが)。これをさらに推し進めれば、文学にとって読者はどうでもよい。誰がどう読んでどう評価しようが関係ないし、読者がいなくたって書かれるものだ。そういう極限まで自分自身にだけ関心を集中させて書く文学こそが実は読まれ得る文学だ(もちろん読まれないことのほうが多いだろうが)。読まれるとここで言うのは、その中身を読まれるということだ。ノーベル賞作家だから読むのではない、芥川賞作家だから読むのではない、現役女子高生作家だから読むのではない、そういう風に文章を読まずに象徴と触れ合っているだけの胡乱な読者ではない、確かで良質な読者は極めて自己中心的な文学を読む人の中にこそいるだろう。逆に言えば自己中心的な文学を読めるだけの人は必然的に確かな読者でなければならないのだ。自己中心的、とは必ずしもオナニー的に書くということを意味しない。そもそも文字を使って書く時点で完全に自己中心的ということはあり得ない。読者を意識せず書いていても必然的に読者の目線で作者は文章を推敲する。無意識に読者が作者の内面に住んでいる。そうでない場合でも、つまり作者の意識としてはある範囲の読者を想定して書いた場合でも同じことで、「ある範囲の読者」なるものを作者が想定できるということはその範囲が作者の頭の中にあるということなわけだから、その範囲の読者の価値観は作者の頭の中に多少なりとも織り込まれている。単純にウケ狙いの小説を書くからダメだ、それは文学ではない、ということを私は言いたいわけではないのだ。むしろウケをいくら狙おうとも文学は文学であり、逆に全く誰にもウケなくても文学は文学でありうる。あるいは作者本人の意思とは無関係に文学は文学なのかもしれない。そしてそういう読み方も一つの方法として存在している。ただ、最も読者を持つ数が少ないと思われる、自己自身にだけ関心を寄せて読者ウケ全く度外視、という方法で書かれた文学には他の方法で書かれた文学とは違う価値があるのではないかと思う。自分の無意識を意識的に取り出す、書く、ということだ。そんなことが果たして可能なのかどうかはわからないが、自分を規定するさまざまな身体的、文化的、経済的、その他諸々の要素を、無意識的な領域として想定してそこを一つずつほどいていく行為は、じつはその無意識的領域が社会的にある程度共有された部分を多く持つということを明らかにしていくがゆえにもはや自己中心性が転換して高度な社会性になるだろう。この書き方および読み方は、例えばマンガやラノベを文芸批評や社会学などの外部的ディシプリンを使って「分析」して「無意識を暴いた」などと恥知らずにも言ってのける浅薄で皮相的な方法論とは全く違うものだ。むしろマンガやラノベを本当に分析したいのであれば、マンガやラノベに耽溺して内部から読むべきなのだ。もちろんマンガやラノベはそもそも自己中心的に自己にのみ関心を寄せて書かれた文学ではない(場合がほとんである)から、つまり書き手からして自分の無意識をときほぐそうなどとは考えていないであろうから読み手側に困難が伴う。上記のようなことが理由で私は大澤信亮はサブカルより文学、と言っているのではないかと勝手に漠然と推測している。もしそうだったら私が考えていることは大澤が既に全部言っているし、これから私が認識を成長させることもあり得ないだろうからこのブログを書く意味もないのでもう車載動画を見る毎日を過ごして死んでいくことになるだろう。もちろんこのブログの読者などはせいぜい一人か二人である。たまにラノベやらエロゲーやらについて書いたときに三、四人に読まれるだけである。それでも読者であることには違いない。つまり大澤信亮があまりにすごすぎるのでもうブログ書くのやめようかな、どうしようかな、と考えている。