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hkmaroのブログ

読書の感想など

ニート、ミニマリズムと新自由主義の関係について

最近小屋ぐらしというものに興味が出てきて、『自作の小屋で暮らそう』(高村友也)という本を読んでいる。読めば読むほど、新自由主義的な生活だと感じる。自分で土地の値段や費用を計算し、法律なども調べ、土地を買い、材料や工具を買い、家を建て、「コスパの良い」暮らしをするという本だ。まるでロビンソン・クルーソーみたいじゃないか。読んだことないけど。

また、山奥ニートという人がいる。萱野稔人も出ている以下の動画を御覧ください。

youtu.be

これも新自由主義だ。新自由主義に適応した生き方だ。

なぜそう言えるのか。wikipediaで「新自由主義」を繰ると、こうある。

……一般的な新自由主義的な視点では全ての人類は自分自身を管理する起業者で、そう行動すべきとする。個人は起業家と同様に将来を含めた自己のステータスを最大化するために友人、趣味、スポーツ、配偶者などを選択するという長所の倫理である。この姿勢は初期の自由主義には見られないが、市場原理を人生の非経済的領域に拡大したものであり、新自由主義の特徴的な点である。

重要なのは、自分自身を管理する起業者である、という点だ。つまり自分という商材を扱う営業マンなのだ。営業とは何も外回り・外交だけが営業なのではない。営業とは本質的にはマネージメントだ。損を出さないように自分を効率良く管理できれば立派な起業家なのだ。そういう意味でニートミニマリストたちは起業家であり、新自由主義者だ。

断捨離というのも新自由主義的な観念なのである。それは「リストラ」と全く同じ発想に基づいている。有用性とコストが見合わなければ捨てよう、つまり「コスパ」が悪ければ捨てようという考えだからである。なぜ断捨離という名の「リストラ」をするかというと、自分という企業に対し損を与えるからである。企業にとっての損は赤字のことだが、自分にとっての損は赤字だけとは限らない。体調や精神的な健康状態もその計算に入る。

この論理をさらに進めていけば、(ガチなそれではなく)日本人が精神の健康のために取り入れるヨガや瞑想というのも新自由主義の一形態に過ぎないということがわかるだろう。起業家としてそれを取り入れたほうが良いと判断するから彼ら彼女らはそれをするだけである。

普通はニートとかミニマリストとか小屋ぐらしとか言うものは、新自由主義から「降りた」人たちの生き方だと思われているだろう。だがその理解は間違いである。彼らは新自由主義者だからこそその生活を選んだ。彼らがその生活をするためには、自分にとって何が必要で何が必要でないかという経営判断を下す能力、さらにはその判断を行うために情報を集める能力(情報強者)、さらにその世間一般とは異なる生活を維持していくための問題解決能力や、論理的推論能力が必要である。また山奥ニート氏のような例には顕著だが、類まれなコミュ力も備えている必要がある。日本一有名なニートphaもこの能力に恵まれていた。

こうしてみれば彼らはどうみても新自由主義の市場においても十分にサバイブしのさばっていく能力を有しているとしか思えないのである。事実彼らは有名になることによって新自由主義者としての優秀さを世間にアピールしている。

だが彼らは主観的に自分のことを新自由主義者だと思っているだろうか? おそらくそうではないに違いない。しかしその点こそ新自由「主義」の素晴らしい特徴なのである。これに関しては次回また書いてみようと思う。

同じことを書いていくしかない&新自由主義は素晴らしい

毎日過ごしていて、特筆すべき新しいことなどそうそう起こらない。せいぜい月に一度あれば良い方であろう。だから話すことなど何もない。書くこともない。生きれば生きるほど、ほんとうは人間は寡黙にならなければおかしい。

しかしそれだと寂しくなってくる。精神の健康を保てるレベルのコミュニケーションというものが不足してくる。だから年寄りは無理して喋る。喋る程のことなど無いのに、喋ろうとする。だから同じことを繰り返す。昔私はそういう老人のことが嫌いだった。と言うより今も嫌いだ。特に自慢話を繰り返す老人たちはすぐに死んで欲しい。でも、同じことばかり繰り返し喋る年寄りの中には、明らかに寂しさから無理してそうしている人もいる。そういう人に対しては、多少理解の眼を向けることができるようになった。

人間には語るべきことなど本当はなにもないのだ。しかし語ることを本能として運命づけられているのが人間でもある。だから人間は大人になるにつれ無駄なことばかり喋る。そしてそれで良いのだということが最近になって少しだけわかってきた。無論、話に付き合わされる側にとってみれば迷惑ではある。そこはお互い様として納得して付き合うしか無い。代わりに自分も話したいことを何度でも繰り返し話せば良い。

だから私も同じことを何度も何度も繰り返し書こうと思う。新自由主義は素晴らしいということを。しかしなぜ新自由主義が素晴らしいかということを、違った方向から説明してみたいとも思う。

新自由主義が破壊するものとして優れているということは先日書いたようにわかった。しかしそもそもなぜこの世の一切合財を破壊せねばならないのだろうか。そうした方がいい理由は何か。

当然のことではあるが、この世がくだらないからである。この世は本当にくだらない。だから破壊したほうが良い。この世を破壊してくれる新自由主義は素晴らしい思想であり方法である。特に、この世界で損な役回りを演じることを余儀なくされている者たちにとって、世界を破壊し更地に変えて白紙からやり直させてくれるようなものは断固肯定すべきである。たとえその破壊の対象に自分自身が入っていてもだ。

最近は文部科学省からの有名大学への天下りの問題が連日ニュースに流れてくるが、これも新自由主義がもたらした喜ばしき風の一つである。学者の地位などはカネで買われることによってその実質を失い、文化・文明としての大学は空洞化するべきなのだ。これも破壊の一つだ。これをけしからんことだと怒る真面目な人間が多数いるはずだが、それ以外に密かに溜飲を下げている人たちも居るはずである。ざまあみろと思っている人たちも居るはずである。大学など滅びてしまえと思っている人たちも居るはずである。新自由主義はそれらの憎しみ全てを抱擁しながら人間の願望を成就させていく。特に負の感情に対して新自由主義は優しい。だからこの世は人間の願望のとおりにどんどんと破壊されていくのである。

私はその様子を眺めているのが楽しくて仕方がない。我々を辛い目に合わせてきたこの世界が悪い方へ悪い方へと流れていくのは楽しい。なぜそう楽しんでいられるのかというと、我々の様な人間はこれまでもう既に相対的に辛い目に遭ってきているので、どちらかと言うと失うものが少ないからである。それよりも昨日まで幸福に暮らしていた人間たちのほうが新自由主義のお陰で不幸に陥る確率が高い。それは我々にとって福音である。この世の破壊の訪れの瑞兆だからだ。

どんどんとこの世は破壊されていく。生き残るための条件は過酷になっていく。それを端的に示しているのは情報弱者は低価格のサービスを受けることができないという昨今の携帯電話の料金体系である。またはいすみ鉄道のようにネットからしか予約を受け付けないというようなサービスの登場である。あるはPCデポである。これらは新自由主義がもたらしてくれた状況だ。MVNOやネット申し込みという形態は、むしろニート貧困層に優しい。ニート新自由主義に虐げられているのではない。ニート新自由主義に適応した存在なのだ。だからニート新自由主義による破壊が尚進んでも生き残るだろう。少なくとも情報弱者よりも生き延びる。同じようなことは貧困層にも言える。国産メーカーやブランドメーカーの無駄に高いパソコンばかり買い換える金持ちよりも、中国製の「コスパ高い」PCやらスマホで毎日ネットに張り付いている貧困層のほうが、情報には強いだろう。そういう存在がネット長者になる。毎日毎日Twitterその他に張り付く行為も全く無駄ではないどころか生き延びるためのスキルとなる。

我々人間のクズは、世に憚らなくてはならない。それだけが生きる意味と言っても良い。幸福な人たちが不幸な目に合うのは何物にも替え難く楽しい。ルサンチマンの開放でもあるし、何より破壊を第一の楽しみとする自棄的人間には社会の水平化は最高の理想でもある。この世が崇高なる新自由主義によって破壊されていく様を一秒でも長く眺めて楽しむために、我々人間のクズ、ニート、メンヘラ、その他のゴミみたいな人間達は、積極的に生き延びねばならないのだ。新自由主義を推進して、この世の全ての人間たちを地獄へ叩き込もうではありませんか!(革マル派の演説風に)

感じたことの備忘録

ここ数年、ある思想家・活動家に興味があって集会などに参加したり、機関紙を買ったりしていた。だがどうにも拭えない違和感を覚えている。

彼らの集会はどこか馴れ合いめいている。切実さを感じない。無論、彼らの主観的には切実なのだろう。だが彼らの集まりにおいて感じる居心地の悪さは、私が大学の新入生の頃迷い込んだオタクサークルの部室内の空気とよく似ている。

彼らは大して面白くない話でよく笑う。よく笑うこと自体は良いことだ。だが、その界隈に多少詳しい人間であればその話題で笑うことが約束されているネタというものがあって、そのネタで予定調和的に笑い、集団の内と外の境界線を確認し合うという行為がどうしても自分には馴染めない。

もしかしたらこれには、彼らの問題以外に私のパーソナリティの問題も影響しているのかもしれない。私はいわゆる空気の読めない奴で(思ったことをズバズバ言えるコミュ強という意味ではなく、その全く逆のコミュ障という意味で)、複数人の人が話しているときに皆がなぜその話題で笑っているのかわからないというか、全く共感できないという瞬間に立ち会うことがよくある。

しかし、彼らのノリとの合わなさに関しては私の人格のみが原因ではないと思う。彼らの会話の様子は二次元オタクそのものである。話のネタがアニメ・マンガ・ゲームから政治・思想に変わっただけだ。

彼らは党派を形成したり、勉強をしたり、教化されたりしたいのではない。友達が欲しいのだ。会話を楽しみたいのだ。彼らの思想にとって党員の拡大、革命的主体の確立よりも友達同士のつながりのほうが重要だと言うのであればそれはそれで正解なのだろう。だが私にとっては重要なことが違った。

私は教化されたい。革命的な主体になりたい。そのことが身にしみてわかっただけでも、彼らの集まりに顔を出してみたことは悪いことではなかったと思うことにする。

本当に革命的なことを考えている人間は、今の時代であれば、とにかくカネを稼いでいるはずだ。いわば、新自由主義にそまり、搾取する側に回り、世界を解釈したり糾弾したりするのではなく、世界を具体的に変革し、転回させているはずだ。身も蓋もなく形容するならば、現代では成金こそが変革者なのだ。

本当に当たり前といえば当たり前のことだし、ビジネス書に書いてあるようなつまらない結論のようにも我ながら思うが、事実そうだとしか思えなくなっている。新自由主義は、いや、もっと広く資本主義は、教養主義を破壊した。共同体を破壊した。文化を破壊した。主体を破壊した。思想を破壊した。自然を破壊した。そして人間を破壊した。資本主義の荒れ果てた世界で生き残る強者とは、最強に破壊的なニヒリストであるだろう。

革命は、つまるところ破壊である。革命家には行政能力は無い。革命家には未来のビジョンなどなくても良い。ただ破壊の意思があればいいのだ。そして資本主義はそれとは一見わからないような形で破壊を本当に見事にやってのけたし、これからもより一層巧妙に破壊を推し進めていくだろう。

破壊を旨とする革命的人間にとって、このことが喜ばしくないはずがない。そして、馴れ合いに満ちたあらゆるヌルい空間をカネの論理によって無慈悲に粉砕してほしいとも願っているのである。

新自由主義の手先としての革命家は、無価値なものには死をと唱えるだろう。だが彼自身価値あるものとは何かを全く知らない。荒れ果てた更地からまた人間がやっていけるようになるのなら、破壊的新自由主義者の行為はこの上なく偉大である。新自由主義と資本主義は、一切合切の破滅と死を望む者にとっての絶望的な福音である。

日記

 どこかに安住の地が欲しいものだ。気軽に愚痴を言っても許されるような場所が欲しい。 

 最近、愚痴めいた言葉を吐き出す場が少なくなったと感じる。要因はなんだろうか。愚痴りたいことが増えすぎたのか。それとも、単に本当に愚痴を言える場所が少なくなってしまったのだろうか。まあ、どちらでも良いことではある。大事なのは、愚痴れるかどうかなのだ。愚痴に関する考察ではない。愚痴るには多分、スナックにでも行けば良いのだろう。一人でスナックに入るための胆力と金力が欲しい。

 三日前から風邪をひいて寝込んでおり、今日は治りかけで、外出して酒飲んだりするのはちょっときついが、さりとて部屋でひねもす寝転んでいるのも辛いという状態であるから、本を読んでいた。スガ秀実の『革命的な、あまりに革命的な』だ。意外な人物たちの革命性が論じられていて面白い。例えば大江健三郎の60年代の作品にはファシズム的な、保守革命的な要素があるという論は感心した。確かにオーケンの60年代の小説は面白い。特に「性的人間」「セブンティーン」などは楽しく読んだ記憶がある。大江本人の戦後民主主義者的発言など無視して良いという主張も良い。確かに無視して良いようなことしか言ってない。

 スガ秀実という人は現在活躍している著名な批評家の中では1968ということに強くこだわっている稀有な批評家である。色々本を読んでいると、この1968という年がいかに重要だったかがわかる。先日『創られた「日本の心」神話』を読んだ際にもそれを感じた。1968がなければ今日的な大衆文化というものはなかったろうし、文化的ヘゲモニー共産党的エリート主義に席巻され、日本はさながら共産圏の国のようになっていたかもしれない。まあ今日の大衆文化もダメだとは思うが、俺は共産党員が書いた小説など読みたくもないし、共産党員が作ったテレビ番組など想像しただけで寒気がする。

 しかし大衆文化は現在、1968の頃と比べて大きく変貌してしまった。新左翼の人たちが仮託した土着性や泥臭さ汚さ、それ故の純粋さを、もはや持っておらず、「動物」「畜群」と表現したほうが当たっている様な何かになってしまった。彼らにおいては生殖も排便も食事も同じことである。生殖と排便と食事だけが延々と続いていく極めて効率の良い人類の社会だけが残ってしまった。俺は1983年に生まれたが、その35年前に生まれたかった。そうであれば、生殖と排便と食事以外にも、人間にするべきことが他にも有ったのだ。そのことが羨ましくて仕方がない。

いまや30台中盤の独身のキモくて金のないおっさんだけど、メモリージャーを始めてみたいと考えているんだ

 もうこの世に楽しいことなんて何も無い。幸せなんて全然感じない。自分が幸せと思ったことも無い。そもそも幸福は資本と同じようなものじゃないか。幸せなやつはどこまでも幸せになるんだ。毎日毎日楽しいと思ってるからいろんなことにやる気がでるし、いろんなことにトライできる心の余裕がある。確かに俺も人生の一時期まではそうだった。でもそんな時期は終わってしまった。案外短かった。幸せを使い果たしてしまったんだ。

 幸せっていうものはお金みたいなものだ。お金はたくさん持ってれば自然とお金が集まってくるもんだ。利子っていう仕組みがそもそもそういうもんだし、ある程度お金をかけて着飾って余裕をもって毎日過ごせばお金持ちという評判がたってみんなから信頼されて重要な仕事を振ってもらえる率も高まるというものだろう。教養もお金があるからこそ身につけられる。教養はお金がなければ身につかないんだ。

 大金持ちはさらに大金持ちになっていく。小金持ちはだめだ。小金はそれ自体でカネを増やすところまではいかない。毎日生活しているうちになくなってしまう。せめて一億円くらいは資産として持っていないとそれだけでお金を増やすことは難しいだろう。さもなくばあくせくと働かなければならない。貧乏人の想像だから合っているかわからないけれど。

 幸福にも同じことが言える。ちょっと幸せ、というくらいの幸せはすぐに使い切ってしまう。生活しているうちに、幸せがどんどんこぼれていってしまう。ものすごく幸せな人間は違う。その幸せにつられて沢山の人が集まってきて、もっとたくさんの幸せを貢いでくれる。人気者になる。だから幸福な人は何があっても幸福なのだ。逆に幸せを使い切ってしまった人はどうなるのか。もう一生不幸なままだ。誰も寄り付かない。一緒にいても幸せそうに見えないから、人はどんどんと離れていく。孤独になる。

 そんな不幸せな人にも支えはある。酒だ。あるいはクスリだ。あるいはギャンブルだ。そういうものは不幸な人であっても摂取すれば不思議に不幸をごまかすことができる。だからどんどん摂取してしまう。依存する。その依存が実は多分その人をもっと不幸にする。だから、不幸な人は幸福にはなれない。

 でもいくら不幸であっても人間は幸福を目指すものだ。それは当たり前だ。辛いよりも楽しく楽に過ごせるほうが良いに決まっている。貧乏だからと言ってもカネは無いより有ったほうが良いに決まっているのと同じだ。貧乏な人がカネを夢見るとき、一体何をするだろうか。どうやってカネのある状態を作り出そうとするだろうか。多分、貯金箱を買ってきて少しずつ貯金するのだ。実際、俺はカネの無いおっさんだけど最近貯金というものを始めた。所詮三日坊主で終わるのかもしれないが、やらないよりは良いはずなんだ。だから始めた。

 同じように、幸福も貯金ができるはずだ。なぜなら幸福はカネと似たようなものなのだから。幸福の貯金はどうやったら実行できるのか。最近ツイッターで見かけたが、メモリージャーと言うものがあるらしい。透明の小瓶に、幸せな事があったら紙に書いて入れておく。透明だから瓶を眺めると楽しかったことが思い出せるし、紙が貯まると幸せなことがたくさんあったと実感できるらしい。そして挫けそうなときは瓶を開けて心を慰めるらしい。

 元々は海外の少女達の間で流行っていたものらしいが、多分日本人の女性たちもやっているのだろうと思う。男は、特におっさんはやっていないだろう。しかしこの幸福の貯金は日本のキモくてカネのない孤独なおっさんにこそ必要だと思う。なぜなら我々おっさんはこの地上においてもっとも幸福を感じにくい層の一つだと思うからだ。だから俺はやる。メモリージャーをやる。キモくてもやる。カネの貯蓄と同時に幸福の貯蓄も行う。それによって幸福をほとんど感じない生活において、少しでも幸福を実感したいと思う。幸福を増やし、ピューリタン的に蓄財に励みたいと思う。思い出を反芻して生きるのだ。

幼少時の母親との関係

 思えば人生が成功するか否かは幼少時に母親と適切な関係を築けていたかどうかに全てかかっていると思う。実の母親でなくても良い。

 俺の人生がうまくいかないのは母親との関係のせいだ。俺は母親が嫌いで、いつか殴ってやりたいと考えている。吉本隆明は3歳まで母親と密着して育てられなかった人間はおかしくなる、とかいうことを言ってたように思う。その説を読んだ当時はオカルトだと思った。しかしそうではないということが理解できるようになった。『ヒトの本性』(川合伸幸)という本にこういうことが書いてある。

 ハーロウと同僚のスオミはさらに研究をつづけ、生後六ヶ月の仔ザルを母親や仲間から隔離して育てる実験を行いました。しばらくしてから集団に戻された仔ザルは、ほかの仲間と毛づくろいをしたり、遊ぶというような社会的行動をいっさい示さず、仲間からの関わりにも適切に反応できなくなっていました。日がな一日自分の身体を抱きしめたり、指をしゃぶるなどの異常な行動をしつづけたと報告されています。
 わたしもかつて、ある研究所で隔離して育てられたサルを見せてもらいましたが、糞を撒き散らし、人が来ると飛び回って金切り声をあげて、飼育ケージのなかでもぐるぐると回転して威嚇し、とても観察しつづけることができませんでした。
 ハーロウたちは、母親と仔ザルの二個体で育てる実験もしています。しかし、それでも仲間と遊ぶ機会を奪われた仔ザルは適切な社会行動を発達させることができませんでした。
 なお、サルといえども、いまではこのような実験を実施することは、法律や研究機関のルールで禁じられています。

 もう俺はまともな人間という自覚をこれっぽっちも抱いていないし、俺の遺伝子は絶やすべきだと思っている。だからこの先ずっと一人で生きていくだろう。普通の死に方はできないだろう。つまり、孤独死するだろう。母親との関係が正常でなかった俺は、適切な社会行動というものをどうやれば実行できるのか皆目検討がつかない。だから友人などは減る一方だろうし、普通に会話できる相手ですら事欠くだろう。

 今考えるべきことは、どうやれば苦痛を感じずに生存できるかだけだ。できるだけ痛みを感じずに死んでいける方法だけだ。不思議なことに、死にたいという考えは起こらない。寿命が来るまでは生きていざるを得ないという諦めのような気持ちのみがある。

最近読んだ本

吉本隆明という「共同幻想」』呉智英

呉智英吉本隆明を批判した本の文庫版。だが、どう見ても吉本隆明が好きすぎてこういう本を書いてしまったとしか思えない。確か単行本は吉本が死んだ直後に出たはずだが、そんなタイミングでこんな本を出すということ自体に歪な愛情を感じる。

硝子戸の中』『こころ』夏目漱石

実はここ数ヶ月くらい漱石を読んでいるのだが、なんというかまったりしていてそろそろ食傷気味だ。話も長編は特に大体似たようなのが多く、友達の女を略奪したとか、女を心の底から好きなわけではないが人に取られるのは嫌だとか、そういう話ばっかりだ。今読んでる『道草』はそれ系とは違う話だが、これはそういう恋愛ものに輪をかけて退屈な内容だ。

『新釣れんボーイ』いましろたかし

これは全体小説のようなマンガだ。こんなに面白いマンガはなかなか無い。

『創造元年1968』笠井潔押井守

全共闘世代にも年長組と年少組があるらしい。年長組はおそらく、1949年以前生まれくらいの者を指すと思われる。対して年少組は1950年以降生まれの者で、1968のときには高校生かもしくは新入生くらいで、いわば「兵隊」として駆り出されていたり、下っ端としてこき使われていたり、高校で闘争を夢見ていた者たちだ。高校生が戦うことの難しさはこの本の中で押井守が言っているし、村上龍の『69』にも書かれている。年少組の価値観は押井守村上龍に代表されると思われる。私はこの年少組の考え方が好きだ。マルクスやら共産主義やら世界平和など微塵も信じていない。ただ世界に対する暴力的な否定の衝動が先にあって、後から色々な言葉がついてくるだけのようだ。そういう者の革命観のほうが信用できる。
この本を読んでいると年長組と年少組の温度差みたいなものがわかる。言うまでもなく笠井潔は年長組だ(表紙の写真だと押井守のほうが年長に見えてしまうが)。冒頭で笠井潔は、自分が当時実際に関わっていたのは年少組の奴らだから俺はむしろ年少組だ、というようなことを言うのだが、そういう口ぶりもどこか年長者の強かさを感じる。私は気分としていまいち笠井潔を信用することができない。