hkmaroのブログ

読書の感想など

ブログ移転

はてなブログが重すぎると感じてきたのでMediumに移ることにした。

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七月十二日、十三日

七月十二日

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朝: 納豆、豆腐、鰹節、ヨーグルト。昼: バーのランチカレー。夜: 唐揚げ定食。夕方から散歩がてら本屋。ホリエモンの『多動力』と赤野工作『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』を購入。

最近ビジネス書を読んでいるのは自己洗脳のためである。ホリエモンの本はそういう理由から。ホリエモンの情弱に厳しい態度などは自分にしっくりくる。

『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』だが、ネットで最近紹介記事が出ているのを見た。田舎の本屋には置いてあるのが珍しいタイプの本なので思わず買ってしまった。

帰宅後タスクを済ませて行く。最近個人的なタスクをTodoistを使って消化している。確かにタスクが終わっていくのだが、異常に疲れる。人間の意志力というか行動力の限界は本当に目に見える形で肉体的な苦痛として現れてくるのだなと思った。無理矢理にtodoをこなしていくのは果たして正しいのだろうかと少し疑問に思う。好きなことを没頭してやっている時には少なくともこんなに疲れることはないし、それどころか眠らずに作業を続けることも往往にしてあるからだ。

同時に、休むことの大切さもわかる。タスク潰しを12時近くまでやって、頭が締め付けられるように痛くなっている時、作業が終わって布団に寝転んだ時のあの感じ。布団に吸収されてしまうような感覚だ。そして行動力がじわじわと回復していくのを体で感じる。タスクを自覚的に潰す生活は何らかの代償行為を必要とするだろう。例えば暴飲暴食や、色欲や、八つ当たりなどである。サラリーマンのストレス発散はこの類だと思われる。こなすべきタスクなど何もない人生が一番幸せだ。人間はするべきことが何もない状態が一番人間らしい。

 

七月十三日

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朝: 納豆、豆腐、鰹節、ヨーグルト。昼: 老夫婦がやっている定食屋のカツ丼。夜: マルショクのおにぎり、マグロ缶、ベビーリーフ。

まっすぐ帰宅し、食後に作業。捗らず。合間にホリエモンの『多動力』を読んで了った。それだけ文字数の少ない本である。ただ、ビジネス書の文字数は必ずしも多い方が価値が高いとは言えない。むしろ文字数が少ない方が読者を暗示にかける力は強いかもしれないのだ。その意味ではこの本は悪い本ではなかった。

ホリエモンの本をいつも読んでいる読者からすると何も新しいことは書いていないらしいが、本文中でホリエモンはそれを認めている。それどころかbotを作成して自動的に本を出せるようにしたいとか言っている。これは結構書物にとって本質的なアイデアで、例えば人工知能マルクスの新作を書いたとかベンヤミンの新作を書いたとか言えばみんな読むだろう。思想というのは同じことの繰り返しになることを避け得ない。むしろ同じことを何度も言うから思想になるのであり、それが読者に影響力を持つ。読者への影響力に主眼があるという意味では、ビジネス書と思想書は根本的に親戚である。思想書を読む層はおそらくビジネス書をバカにしているし、またビジネス書を読む層も思想書をバカにしている。俺はどちらも読んでいるわけだが、どちらかと言えばビジネス書の方が今という時代に合っている語りのスタイルだ。かと言ってビジネス書が全面的に正しいかというとそうも思えない。前にも書いたがビジネス書など所詮詐欺だ。もっとプラグマティックな儲けのメソッドはあるはずなのにそれは公開せず、とにかくやるのです!今日からやる男になりましょう!さあさあ! などと読者を煽るばかりだ。

ただ、それでも行動の指針めいたものをほのかに与えてくれたり、モチベーションを採掘してくれたりする点ではビジネス書には効用がある。思想書にはそのような効用はない。1968の頃の思想書にはあったのだろうが、今の思想書は病人の本だ。何もやらないための言い訳をうまく言うための本だ。そのような思想書は存在しなくても一向に困らない。

 

ホリエモンスマホで原稿書いててスマホですべての仕事をしてるらしいけど、それを読んで気付いたけど最近俺ももっぱらスマホでこのブログを書いている。PC開くのはプログラミングするときくらいだ。本当はプログラミングにもキーボードとか両手とかを使いたくない。脳とマシンを無線で接続する技術が早く開発されて欲しい。

七月十一日 角川春樹『わが闘争』

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棒ラーメン。昼500円焼肉定食。夜コンビニサンドイッチ、いわし梅煮、おぼろ豆腐。カロリーを記録してみると食い過ぎということがわかる。コンビニでは卵やらヨーグルトやら納豆を買った。

 

角川春樹『わが闘争』をめくる。なかばギャグのように読めるこの本だがここまで自分のことを天才と言い切れる人間はやはりある意味で天才なのだろう。そのことを彼自身知っていて、自覚的に自己暗示をかけているようだ。そのような自己暗示を角川春樹に教えたのはナポレオンヒルの本である。そう考えるとビジネス書には確かに時代を作る力がある。現代では哲学書よりも単純に力を持っている。

そのようなルーツがあるから当然この本もビジネス書的な装いを帯びている。彼はナポレオンヒルに出会ってからは年間300冊の本を読むようになったというが、その冊数から推測するにやはり自己啓発的な内容の本が多かったと思われる。当時の自己啓発本がどのような本だったのかはわからないが、彼がその数十年後までも自己暗示の力を信じていることからその後の読書もやはり自己を啓発するものだったのであろう。

しかし意外にも彼は現代のいわゆるビジネス書を批判する。最近俺もビジネス書を読むようになって気付いたことだが、ビジネス書が提示する理想の人生とは、早期に労働から解放され早くも30代40代から悠々自適な生活を送る富裕層の暮らしである。つまり、ビジネス書でありながら読者の「働きたくない」という願望を煽ることによって売り上げを伸ばしているのである。角川春樹はそのような考え方を老人の生き方だと言い切る。つまらない生き方という。

俺自身は根が引きこもりなので働きたくないという願望を人より多く持っているが、その俺でもビジネス書の矛盾した在り方は疑問に思っていた。労働からの解放。それを軸として一致するBライフ系ニートと意識高い系ビジネスマン。結局新自由主義が人の心に植えつけたのは、「働きたくない」という非生産的な気分なのである。

だからこそ本編では自らを天才と断言して憚らなかった著者が文庫版の後書きでは自己を二流だと表現しているのかもしれない。それは反時代的な振る舞いなのだ。二流であるということは不良であるということだ。ハルキ文庫が今更電子書籍やウェブの世界でイノベーションを起こすとも思えない。このレーベルは最後まで紙の本を主たる売り上げとして生きていくだろう。だからハルキ文庫を天才の仕事ということはできない。ただハルキ文庫は面白い。面白い本の割合が高いと思う。これは「良い仕事」がハルキ文庫にあるからだろう。このような仕事の在り方は天才のものというより職人のものだ。角川春樹は最終的に生涯一編集者という仕事観を得たが、それは職人の考え方である。仕事それ自体が楽しければ職人の生き方もまたこの上なく自由な生き方と言えるだろう。そして確かに、一発当ててニートになりたいというくらいの仕事観しか持たない新自由主義者より人間として信用に値する仕事観だ。

この本はビジネス書の水準を突き抜けてしまい通り一遍のビジネス書とは真逆のことを言っている。ビジネス書にはこのような中和剤がたまには必要だ。

 

七月十日、ホリエモン『すべての教育は「洗脳」である』

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曇り。昼に喫茶店Fでチキン南蛮定食。夜はコンビニのハンバーガーとサラダスパゲティ。夜勉強会に出席。

 

ホリエモンの新書『すべての教育は「洗脳」である』を読む。昔からホリエモンの言っていることは変わらない。人間は好きなことをやって生きればそれで良い。そういうことに尽きる。嫌なことをやる奴はバカ。みんながみんな好きなことをやってればそれで良い。そういうことだ。梅田望夫という人が昔いて、その人が言っていることも概ねこのようなことだった。渡辺浩弐という人も似たようなことを言っていた。ネットの時代には、人間はどんどん好きなことをやれば良い。それをネットで発信しまくればいい。ニートだろうが引きこもりだろうが低学歴だろうが関係ない。ガンガン好きなことをやればいい。それこそが新しい価値を生み出すのだ。

そういう説を信奉した一人のニートが居た。名前をニートスズキという。かつて日本でphaの次くらいに有名だったニートだ。人は本当に好きなことをやっているだけで生きていけるのか。俺はそんなことは虚妄だと思う。そうでなければ詐欺師の甘言だと思う。なんだかんだ言って貯金は大事だし安定した収入は精神の安らぎとなる。世の大多数の人間にとって、フツーの暮らしはフツーに良いものだ。ただし、その人がフツーである限りにおいて。

俺はフツーの人間未満だ。だからホリエモンの言葉に簡単にのせられてしまう。それは本来良くない性質だが、最近それを肯定的に捉えることもできるようになってきた。

実はビジネス書を最近よく読んでいる。ビジネス書はドラッグだ。ビジネス書を書物の枠組みでみるからまともに読む気がしなくなるのだ。ビジネス書はカフェインやアルギニンと同じような合法的な薬物なのだ。酒やコーヒーに対しては月に何万も使うのに、強い覚醒作用をもたらすビジネス書というドラッグに数千円のカネをケチるというのは合理的ではない。ビジネス書は酒とカフェインとともにキメるのが覿面に効く。アニメ(これもドラッグだ)との食い合わせは良くないが、ほんの千から二千円程度のカネで覚醒を買えるのであれば安いものだ。現代社会における消費はもっぱら精神のための消費である。そう考えるならあらゆるものは情報ドラッグなのだ。

ハッキリ言ってビジネス書の著者などは例外なく全員詐欺師だ。ビジネス書とは大前提として真面目に読むものではない。ビジネス書に書いてあることを間に受けて実践しても風車に突撃する初老の男になるだけだ。意識高い系と揶揄されるタイプの人はビジネス書というドラッグの摂取の節度を守れなかった人達だ。

詐欺師の言説は虚言でできている。しかし、虚言は一部に本当のことを混ぜるから効果を発揮する。同様にビジネス書にも一部は本当のことが書かれている。ともすれば本当のことだけを書いたと自称する本よりも多く本当のことを教えているのである。ビジネス書から何かを得ることがあるとすればそこだけだ。詐欺師は必ず嘘をつくが、その嘘のために必ず本当のことも言わなければならないのだ。ビジネス書を摂取する我々は詐欺師の言葉を楽しく鑑賞しつつもそこから本当のことを選り分けて吸収することを心がけねばならない。嘘つきこそ嘘を糊塗せんがだめ多くのことを語るからだ。

ビジネス書に簡単に感化されるということは、これをドラッグとして考えるならば、用量少なくして効果は倍ということである。ビジネス書を好きな意識高い系の言葉で言えば、コスパが良いのだ。フツー未満の人間はドラッグに対しては敏感で、普通よりも大きな効き目を得られる。どんなに普段アパシーを覚えていても、だからこそ情報ドラッグを頭が破裂するくらいまで摂取することができる。しかもビジネス書はそういう落ちこぼれを騙すために書かれているから、効き目は倍増する。クズみたいな暮らしをしてる人間ほどビジネス書には癒されるし、自己啓発されるのである。社会と折り合いがつかない俺にはイノベーターの才能がある。そういうことをビジネス書は言ってくれる。

もちろんそんなことは詐欺以外の何物でもないのだ。だがたとえ詐欺であってもそれが心を上向かせるなら効能はある。体に悪い食い物は心に元気を与えてくれる。ビジネス書とはそのようなものだ。

 

セックスとオナニーの違い

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セックスとオナニーは同じことだということに気づいた。

オナニーは肉体に対して自分はセックスをしているのだと錯覚させて射精をさせる行為だ。オナニーはいわば肉体のハッキングだ。肉体はオナニーとセックスの区別をつけられない。だから射精をしてしまう。肉体は射精の回数をセックスの回数として数えるだろう。その都度回数に応じて精子の補充具合を決定するだろう。

セックスとオナニーを区別するのは人間の意識である。しかし人間の意識はその基礎を肉体に持つ。同じ射精という現象から人間はセックスとオナニーという別の意識を持ってしまう。それは別にいいがセックスができないからと言って悩むのは間違っている。オナニーも立派なセックスだ。

それよりも、肉体に対してオナニーというハッキングを仕掛けるのは誰なのか。それが問題だ。男自身ではあり得ない。そうする合理性がない。セックス、つまり性交渉という肉体の本来の目的を達成するために女を探すほうがよい。肉体は肉体自身のために女を探し求めるだけだ。人間は1つの肉体以上のものではないから男自身が男をハッキングするわけがないのである。

では男が女を探し求めることを抑圧しているのは誰なのか。男にオナニーを強いているのは誰か。社会、人間集団、共同体、超自我、そういう言葉がすぐ浮かんで来るが違う。ならばそれらを生み出している主体は何なのか、という問いがすぐ後ろに控えているからだ。

絶えず社会を再生産する何者かの存在。それは人間を媒体として生息する。人間に寄生して生き延びる。人間(まあ、ここではとりあえず男に限るが)はオナニーをすることで、つまりセックスをしていると思い込まされている時点で、何者かに洗脳されている。ハッキングされている。

何者か。それは端的に言って言葉そのものだろう。人間は言葉そのものが生き延びるための媒体でしかない。人間が生きているのではない。言葉が生きている。人間はただの道具であり物質に過ぎない。言葉を聞くこと、語ることは、言葉の呼吸であり食事であり生命活動だ。

言葉が生き延びる上で社会は必須だった。人間社会ほど活発に言葉を必要とする集団の在り方は考えられないだろう。言葉を持たない動物たちの社会はいくら複雑に見えても人間のそれには比較すべくもない。

人間が絶滅しても言葉を介する生命があるなら言葉もまた生き延びるだろう。言葉こそ最も後に生まれた、生命の最も新しい形態なのである。

人間は言葉に寄生されている。そこからの根本的な治癒は肉体から言葉を追い出すこと以外にない。それはいまの人類には不可能だ。だからこそ言葉を用いない健康に戻れる時間というものが人間には必要なのだ。そういう時間がなければ、人間は言葉という寄生虫に体中のエネルギーを食い尽くされ死んでしまう。それこそが自殺だ。言葉が食うエネルギーとは心的なエネルギーである。心的なエネルギーが尽きれば何も感じない人間と成り果て、死ぬ以外ないと考え始めるだろう。

 

疲れていてなんのやる気も出ない。このまま溶けていって無くなるのではないかと思う。心に大きなウロがある。なにかやり残したこと、もしくは失ってしまったものがある。にもかかわらずそれがなんなのかわからない。

疲れているにも関わらず眠ることができない。眠れない。体を疲れさせれば眠れると思っていた。しかし間違いだった。眠ることすらできない肉体は完全に不良品だ。疲れているので活動もできないのだ。

 

文章を書くとエネルギーを吸い取られるような気持ちになる

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このブログを書くとき、気分はいつも吐きそうになっている。苦しいからだ。何がこんなに苦しいのかはわからないが、とても体力と精神力を使う。

多分、本来なら何も書くことなどないからだろう。俺は無理矢理に言葉を書き付けているような気がする。みたくもない自分の本音を、自分の心臓を切り開いてえぐり出しているような感覚がある。

それがいいことなのかはわからない。こういうことを続けていると、本当に個人が特定できかねないことや、身もふたもない金や下半身の話を書いてしまいそうな気もする。

それでもこうして書いているのはなぜなのだろう。誰が見に来るわけでもない、自分すらろくに読み返さないこの文章はなぜ書かれるのだろう。

 

昔のように書きたいことがない。人生に何も感じなくなった。何かを感じる前から既視感があり、やる前から飽きてしまっているような感じがある。俺は書きたいことはもう書き尽くしてしまったのかもしれない。書き尽くしたとは言え、並みの作家の一冊分程度くらいの文章量しか書いていなし、しかも所詮ブログだ。こんなものは何か書いたのうちに入らないだろう。しかしそれでも実際俺は出がらしになってしまった。その程度で出がらしになってしまう人間だったということだろう。

もう何もやる気が起きないし、何に対しても語りたいという気持ちが湧いて来ることはない。ただ唖のように黙るだけである。何かやりたいことがある奴は好きにやってくれ。俺はもう何も言わないし何もしない。そういう気分だ。

 

なぜ何も語る気がしなくなったのだろう。多分だが、語っても無駄だったからだ。語ることが徒労として俺の脳に刷り込まれている。事実、今これを書いているときも無駄をしているという気持ちがある。何をしても無駄だと心の奥底で感じている。語っても誰も聞きはしないと悟っている。それを悟っていなかった頃の俺は積極的に語ろうとしていたのだろう。他人を信じていたのだろう。必死に語れば伝わると思っていたのだろう。完全なるバカだ。そんなことはあり得ない。語れば語るほどそれが無駄だとわかってしまった。

何をしても無駄だと悟ってしまった人間にとって、生きること自体が無駄である。だからきっと俺の時間は重苦しいのだ。無駄なことをずっとやらされているという気持ちばかりが増大していくからだ。何か、やっていて無駄ではなかったと思えるようなことを、俺の脳みそは本能として求めているのだろう。しかし残念ながらそういうものはない。何もかも無駄なのだ。無駄なものに対して期待をかけて、さらに裏切られる経験を重ねれば、もはや発狂する以外に道はないだろう。

とは言え、発狂には憧れるのだ。発狂すれば苦しみなどないだろうと推測する。もしかしたら間違いなのかもしれないが、発狂している人の人生はシンプルだ。だから俺も発狂した方がきっといい。発狂すれば単純で充実した人生が戻ってくるはずだ。

この世は俺には合わない

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何不自由なく生きられる時代に生まれたはずで、事実不自由なく暮らしてるが、何1つ自由にできたと感じた試しがない。

俺がこの世に合っていない証拠だ。この世は俺に合わないし、俺もこの世に合わない。この世が俺に愛想を尽かしてるのか、それとも俺がこの世に興味を失ったのか。

俺は確かに昔に比べてこの世に対して興味を失った。だがこの世も俺に興味を失った。そんなこの世なら残りの人生を酒で潰す以外に何をすればいいというのだろう。

この世に合わない人間はなぜ生まれてきたのだろう。ヒメアノ〜ルを思い出す。この世は最善ではない。この世に合わない人間が生まれてきている時点で確実に言えることだ。

この世に合う人間が憎い。この世にたっぷり気にかけてもらって、この世におんぶに抱っこで生きている人間が憎い。殺してやりたい。俺は幸福な人間を殺したいと思うが、彼らが幸福だから殺したいのではない。幸福な人間は俺が嫌いなこの世の手先だから殺したいのだ。この世と結託している、この世の一味を皆殺しにしたいと感じている。この世は敵だからだ。

死にたいという気持ちより殺してやりたいという風に思うようになった、というはてな匿名ダイアリーが最近上がってきていた。俺は死にたいと思ったことはほとんどないが、殺してやりたいという気持ちはずっとある。俺はこの世を積極的に否定するために生まれたのだろう。何に対しても不満足ばかり感じる俺は。